(一) 
 
 雨が早朝からびしょびしょと降る。寂れ切った街道の脇道に、観音堂があった。
 樅と栂(つげ)の木立ちの中を激しい雨垂れが注ぎ、堂の中をむっと噎せ返るような湿気を招いていた。
 先程から、ぼりぼりと響く音が止んだので、隼太郎(はやたろう)はすかさず言った。
「おぬし、いつまで食っている」
 堂の片隅で胡坐を掻いていた高木剛次郎が、顔を上げる。
「腹がくちくなるまで」
 煤の付いた頬を拭いもせず、剛次郎は再び巾着袋の中の干飯(ほしい)を噛み始めた。満腹になるまで食ったのでは、手持ちの食糧が尽きてしまう、と隼太郎は小さく呟いた。
 大体、干飯を湯戻しもせずそのまま食うとは。腹が下っても知らないぞ、と思う。
「干飯が尽きたら尽きたで、野兎でも鳩でも捕って食えばいい。とにかく我等は何処でもよい、幕府軍に合流するしかないんだ」
 剛次郎は淡々と言い放った。
「いつになるかは判らんがな」
 と、隼太郎は答えた。
 越後柏崎を出て十一日目である。何の宛てもなく逐電したのではなく、此処らに逗留しているのは長岡に向けて衝鋒隊が進軍しているという情報を得てのことであった。
 戦況に拠っては衝鋒隊に合流することが困難という事も有り得る。その時は、日光へ向かう。そう隼太郎も剛次郎も決めていた。
 しかし、隼太郎が自嘲気味に言った言葉には、不安の影が付き纏っていた。
 早暁、山路へ入る前に西軍の間諜らしき者を見た。この辺りは明らかに北国街道を東に抜け、山脈沿いに長岡へ出る事が出来る越後領である。もし本当に間諜だとすると、東山道鎮撫軍は既に上州北部を破ったことを意味するのではないか。
「高崎藩も安中藩も降伏したのだろうか」
「そのようだな」
 端からそう思っていたかのように、剛次郎は答えた。隼太郎はじっと、剛次郎の様子を凝視していた。
 が、剛次郎はやはり飽きもせず、干飯を食っていた。
 子供の頃から飄々としたところがあったが、こんな時にもまったく動じる気配もない。旧友ながら変わった男だ、と隼太郎は思った。
 両人の間に沈黙が訪れてどのくらいの時間が経った頃だろうか。
 なまじ親友であるだけに、改まってする話もない。剛次郎もそもそも冗舌な男ではない。
 隼太郎には話したい事があった。しかし、それは話すのを憚られた。お互いに暗黙の了解として、その話題だけには触れぬよう、この数日我慢してきた。
 その思いは、束の間の野宿の時も厭かず隼太郎の脳裡を巡り、胸を苛んだ。夢魔に魘されたように黒い蟠龍が夜中、隼太郎を突き上げ、はたと目覚めると、隣の剛次郎もまた目を見張ったまま、汗を掻いて横になっていた。
 だが、二人は互いに夢のことを話さなかった。
 目覚めた後、隼太郎は印籠の中の物を確かめることが多かった。
 主君より頂戴した御札が入っている。
 それは主が京に居留していた時、北野天満宮から賜った物である。
 主家の先祖は菅公であるといい、家紋も梅鉢紋である。養子の主君は血筋に無関係だが、京で務めることも何かの縁として、参詣を怠らなかった。慶応三年暮に任を解かれ、京を追われるまでの四年余。
 柏崎を出る前に直々に頂戴した御札を、剛次郎も同じく持っている。
「気休めだが、何かの役に立とう」
 と、隼太郎より一つ年下の若い主はそう言った。理知的な思考を持つ主をもってしても、抑え切れぬ衝動や情念が戦には渦巻いている。
 隼太郎も、その恐ろしさを知ってしまった。
 そして、剛次郎はどう考えているのか、そのことを問うてみたかった。
「剛次郎……」
 言い掛けた時、観音堂の扉が重々しく鳴った。湿気の為にぎしぎしと軋む。
 隼太郎は息を詰めた。だが、剛次郎はまだ干飯を食べていた。
 いつでも刀の鯉口を切れるようにして、隼太郎は立った。入ってきたのは菅笠と粗末な蓑を着た若侍だった。
 しとど雨に濡れた菅笠をはずした侍は、恭しく隼太郎に向かってお辞儀をした。
「御免、雨宿りをさせて頂けませぬか」
 声を聞いて、隼太郎は瞠目した。

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