(十) 

 空が明るんだ頃、漸く雨は小降りに転じた。
 霧のような小雨が降り注ぐ中、隼太郎は観音堂を出た。
 先に出ていた剛次郎が、伊織の馬・翠丸に僧の遺骸を担ぎ上げていた。
「私はこの者を近くの寺へ運び、弔いをいたしてから出立いたしますゆえ」
 と、伊織はすっかり袴も着け、身支度を整えた姿で言った。
「あの」
 隼太郎は、遠慮がちに声を掛けた。
「何ゆえ、貴方様は老人の敵討にお手を貸そうと?」
 すると伊織は遺骸を結わえつけていた紐から手を離し、隼太郎に向き直った。
「老爺にこれを守って頂いたのです」
 例の油紙に包まれた、懐の書状を指す。
「街道沿いの木賃宿に泊まって風呂に入っていたところ、不逞の輩が私の脱いだ物をごっそり盗み出そうとしていたのです。盗られて困る程の物も身銭もないのですが、書状だけは」
 伊織はそう言って、長い睫毛を伏せた。
 孫右衛門老人は、たまたま同じ宿に居合わせた。
 昔取った杵柄とやらで、盗人らを木刀で殴り倒し、衣服と書状を奪い返してくれたのだという。
「私と同じ年頃の娘御を亡くしたとか。そこで若い娘の窮状を黙って見ておられなかったと」
 だが、年寄りの冷や水というものか。激しく立ち回った為に足を痛めてしまい、これから敵討というその大事に断念せねばならぬのかと、臍を噛むところだった。
「それで助太刀を」
 隼太郎は大息を吐いた。
 孫右衛門老人の姿は、既に堂の前にはない。四半刻も前に、老人はまだ小雨の降りしきる中を出て行った。
「老人は何処へ行くつもりなんでしょう」
 隼太郎は、問わず語りに呟いた。
 伊織も剛次郎も答えなかった。答えは必要無い。
「貴方様はこの後何処へ」
 隼太郎は伊織に訊いた。さて、と伊織は微笑した。
「御在所へお行き下さいませ。急度我が殿も――」
 すると、伊織はいえ、と首を横に振った。
「御役目のことはお話出来ませんが、私は、西の丸の足下の者です。ゆえに桑名様の御前に参じることは不穏当」
 その御役目が如何なる部署に属するのか、誰の命であるのか、隼太郎はおぼろげに覚る事が出来た。
 決して用向きを他言してはならない御内々御用探索方なのである。
 そして、伊織は恭順謹慎を申渡した幕府側の人間が、抗戦派に出入りするのは理屈に合わない、というのである。
 或いは、身分を偽ったとしても、やがて露見すれば伊織自身が吉村のような目に遭わないとも限らないともいえる。
「敵味方ということだ」
 剛次郎が言った。伊織は翠丸の手綱を取った。
「御両人は、梁田(やなだ)へ向かわれるといい。衝鋒隊という幕府軍の歩兵隊が編成されているそうです。古屋佐久左衛門という男に会って下さい。西の丸お留守居様の御紹介だと言えば、歓迎されるでしょう」
 伊織は、元若年寄支配・御庭番総宰にして村垣淡路守範正の記した書付を隼太郎に渡し、馬上の人となった。
 隼太郎はぼんやりとその後姿を見送っていたが、やがて思いついたように手を挙げた。
「伊織どの、またいつか」
 遠ざかる伊織が、一瞬だけ半身になり会釈をしたように見えた。
「おれ等も行こう」
 剛次郎が隼太郎の肩を軽く叩いた。隼太郎は頷く。漸う小雨も止み、東の空から陽光が差しはじめた。
 隼太郎は歩き出す。
 だが、何処かに釈然としないものが残っていた。
 孫右衛門老人が積年、太吉を敵として狙っていたように、隼太郎も剛次郎もまた急度、吉村の家族に狙われて然るべきであろう。偶然にも、小者の兄であった太吉が二人を追っていたように。
 その時、隼太郎はどうすればよい。
 甘んじて刃を受け入れるか、返り討つか。
 道中ずっと考えた。だが、その答えは出なかった。

 その後、衝鋒隊指揮官として転戦した隼太郎と剛次郎は、庄内で降伏するも、主君・松平定敬を追い、箱館まで派遣された。
 しかし、行き違いに邂逅かなわぬまま、戦争終結を迎えた。
 現実に彼等が主と見えたのは、明治の世になってからであった。
 隼太郎は戦後、すぐさま渡米した。敵討の遺風を避けてのことである。
 その仇討禁止令が発布されたのは明治六年。だが、その後も隼太郎は一度も桑名に帰る事は無かった。
 アメリカに留学していようと、東京で家庭を持とうと、しばしば隼太郎を苦しめた悪夢、粟島小路での出来事が彼を苛んでいたのだろうか。
「雨か」
 病室の外は灰色くけぶっていた。大粒の雨が窓を穿っている。
 目を閉じれば、国境のあの山間の観音堂がぼんやりと浮かんだ。その中に老人の小さな姿もあった。湿った空気が鼻腔に充満する。
 ぽりぽりと、剛次郎が頑強な奥歯で干飯を噛む音さえ聞こえてきた。
 胸の痛みと痞えが次第に遠のいて行くような気がした。三十八年もの長い年月、追手を逃れ続けたような心の凝りが解れ始めた。
 隼太郎こと山脇正勝は静かに目を閉じた。五月の夜雨は、その頃止んだ。

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