(二)
女の声であった。堂の中は雨天の所為で薄暗く、しかも侍の背丈は己らとそう変わらなかったので、てっきり武士と思った。
しかし、蓑を脱ぎ、堂の中ほどまで歩んできたその顔
(かんばせ)は、紛れも無く若い女の匂うような面だった。
「構いませぬか」
許可を求められ、隼太郎は飛び退くようにして剛次郎を振り向いた。さしもの剛次郎も、干飯を食うのを忘れていた。若衆のような女武者の華麗な容貌に、毒気を抜かれたようであった。
「いや我々も同じく雨宿りをしておるだけでしてな。遠慮は要らぬ、中へ」
隼太郎は声が裏返りそうになりながら、女を堂の奥へ誘
(いざな)った。
忝い、と女は唇を緩めた。
「別所伊織佑豪
(すけたけ)と申します」
隼太郎は、さらに驚いた。旅芸人の安全の為の扮装かと思ったが、名乗りもある。二刀も差している。しかも、立派な講武所拵だ。
直参の娘か縁者が戦禍から避難しているのであろうか、と考えた。
「舘辰郎と申す」
隼太郎は偽名を名乗った。剛次郎も「高橋一」と言った。
相手が何者とも知れぬ。女といっても、油断はならない。東山道軍の間諜でないとも、言い切れない。
伊織は肩先や髪の露を払うと、板間に正座した。
「御安心下され。私は只の素浪人。新政府軍の者ではございません」
隼太郎と剛次郎は顔を見合わせた。伊織は脇差を抜き、黒塗の鞘を薄日にかざした。
漆黒の鞘に金泥の御紋が浮かび上がった。言葉はなくとも、それだけで充分だった。
「御察し下さいましたな」
と、伊織は言う。
隼太郎は頷いた。江戸前の丁寧な言葉遣いも確かにそうである。この女は、御目見え以上直参の身分の縁者か、その当人だったらしい。脇差は恐らく前の将軍・家茂からの下賜品であろう。
「何故我等を旧幕府方とお判りに」
隼太郎は、誰が聞いているでもないのに声を落とした。剛次郎は、再び干飯を噛み始めた。伊織は脇差を仕舞いながら、軽く笑んだ。
「私は只今、堂の外に老馬を繋いでおります。山道を馬で参りました。とかく、町育ちゆえに不慣れなもので、人気のある道を選んで参ったのです」
すると、村々に入る幾つかの口で、水原方面からの路に踏んだ形跡があった。杣人
(そまびと)のものにしては時間が遅い。通常、この時期に山へ木を刈りに行くとなると、泊りがけにしても早朝暗いうちからである。
よって、余り山馴れない己と同じ様な者ではないかと思ったという。
「東山道軍の者とは思わなんだのですか?」
「彼等はまだ上州に分隊を置いております。ですが、一部日光を目指しているようなので、私も仕方なく越後領まで出て来ました」
「既に其処まで来ているのですな」
隼太郎は唇を噛んだ。
「貴殿は、別所殿はどちらへ行かれるのですか?」
すると、伊織は俄かに口を噤んだ。
「私にも判りませぬ」
と、ややあってそう答えただけだった。互いに警戒を解いていないという事か、と隼太郎は思った。
「舘殿のお生まれは?何やらこの辺りとも上方ともつかぬお言葉のようですが」
伊織のほうから当たり障りの無い話題を持ってきた。
「美濃です。江戸にいたことも京にいたこともあります」
隼太郎は咄嗟に偽った。しかし、後半分は本当である。江戸屋敷で育ち、一時期越後柏崎に住み、家老の父とともに主君の京詰に同行した。故郷で過した年月は少なく、大半は江戸言葉を使っている。
それでも在藩の人間と付き合うと、自然と田舎言葉も混じってしまうのか、伊織のきびきびとした侠
(きゃん)な言葉は洗練されていて、己と違う気がした。
「そうですか。まだ御国はございますな。私など薩長に追っ立てられ、老母を田舎家に越させた揚句に帰る所も失くしてしまいました」
伊織は苦笑した。
その時、剛次郎が立ち上がった。「小便だ」と言い捨て、袴の裾をたくし上げて堂を出て行く。
隼太郎は剛次郎の背中を見送って、伊織の滑らかな横顔の線を見た。
「その我等にも、実は帰る国はない」
と言う事が出来なかった。隼太郎らも兎も角、戦になり主君が江戸へ帰り着いて間も無く藩は開城し、恭順の意を示した。
ところが、主君は抗戦を主張した為に江戸を離れることとなり、分領地へ引き篭もるという名目で赴いた。とはいえ、新政府軍はかつて京洛で強大な力を用い、彼等を禁裏から斥けた主君の行いを許すとは思えない。ならば、闘うしかないのである。国を失くしても。
隼太郎は痛々しくも清々しいまでの主君の決意に従うのである。それしかなかった。
ふと、視線を上げると、伊織の項が目に付いた。浪人のように束髪を結んでいるが、明らかにそれは若い女の首筋の艶かしさを漂わせていた。
雨の匂いに充満した堂の中も、先程から何処と無く甘酸っぱい香りが広がっているようで、隼太郎は落ち着かない。
「早く戻ってきてくれぬか、剛次郎」
胸の裡で呟きながら、隼太郎は何度も正座したり足を崩したりしてみた。
何気無くまた伊織のほうを見遣ると、襟の合わせ目から何やら油紙に包まれた物が垣間見えた。
書付を濡れないように包んでいるのか。だとしたら、その中身は何だろうか、と隼太郎はつれづれに思った。
「確かにこの女子、旗本の子女らしいが、行く先も用件もはきと云わない。或いは、幕府の密使でひそかに各藩を回り、恭順の下命を運んでいるとも考え得る。ならば、直参と雖も我等とは相容れぬことになる」
そう考えれば、何故上州の情勢に詳しいか、只旅程で見聞しただけでは判りそうもない東山道鎮撫軍の動きまで知っているのか、説明がつくのではないか。
美貌の女というのと葵の御紋の脇差に、すっかり安堵してしまったが、やはり油断ならない。
「それにしても、長い小便だ。様子を見てきます」
本当に干飯の食い過ぎで腹でも痛くなり、動けないでいるのかもしれない。言わないこっちゃない。
隼太郎は立ち上がり、堂を出ようとした。剛次郎に、今思ったことを告げておくべきだろうと考えていることは、胸中に隠して。
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