(三) 

 隼太郎が扉を開けた途端、黒い人影が目前に迫った。
 剛次郎ではない。網代笠に墨染の法衣の旅僧であった。隼太郎は一歩下がった。
 雨宿りの客が、もう一人増えたのである。
 ずぶ濡れの法衣の裾を絞って、僧は堂の中へ「御免」と言って入ってきた。
 網代笠を取った僧の頬や顎には、昨日今日からではなく、数日も放置された青い髭と憔悴が隈取っていた。剃髪も毬栗のように伸びてきている。
 しかし、髭の下の面つきはまだ若い。三十程だろうか。
 額の右上に赤黒い鶏卵ほどの痣があるのが特徴だった。
 隼太郎は、僧に異質の空気を感じ取った。
 言葉にし難いが、何とはなしにその姿に仮初の臭いを感じた。異質さは、僧の柔和で実直そうな顔付きに不似合いな痣の所為か。
 それはそれでいい。己等も身上を偽って転々としている。
 だが、旅僧が入ってきたと同時に堂の中の熱気に、一瞬水が打たれたようなものが走ったのを、隼太郎は否めない。
 僧のほうも、隼太郎の気配に何かを感じ取ったようであった。
「火を焚きましょうか」
 伊織が、隼太郎に声を掛けた。
「然様ですな」
 と慌しく答え、僧が戸口を離れて奥へ進むのを見遣りつしている間に、素早く伊織は火打石を打っていた。誰かが以前に柴をくべていたのだろう。燃え残りの上に湿った板切れや小枝が置かれている。
 堂の中が明るみはじめた。
「どうぞ、此方へ。我々も雨宿りですよ」
 隼太郎の代わりに伊織が言った。僧は忝い、と短く礼を述べて燃え出した炎の前に立った。
「知海と申す」
 僧は名乗った。隼太郎は焚火から離れていた。知海に近付きたくは無いが、目を逸らすことも出来なかった。
「ところで、舘どのはお連れの様子を見てこられるのでは?」
 伊織はそう訊いたが、隼太郎は頭を横に振った。やはり、この僧形の男の事が気に掛かる。
「御坊は何方から?」
 伊織が訊いた。三者間に流れる、奇妙な気まずい空気を打消すつもりなのだろう。隼太郎にとっては有り難い。だが、知海という僧にとってはわからない。
「高崎より酒田のある寺に呼ばれておりまして、此処を通り掛かったのです」
 僧の声は、少し嗄れていた。読経のし過ぎか、喉を痛めているだけなのか。
 言葉に西国訛りはない。だが、必ずしも薩長の間者でないとも限らない。隼太郎のように江戸育ちの人間ともいえる。
「関東周辺は、いま殺伐としておりますでしょう。よくご無事で此処らまで参られましたな」
 伊織がにこやかに言った。
「なに、拙僧のような乞食坊主を取って食おうなどという奇特な人間は、何処にも居りませんよ」
 知海は、軽く笑った。笑うと一層優しげな顔付きになる。隼太郎は、少しほっとした。
 そうして、堂の中がやや湿気払いされた時、三度扉が押された。
 剛次郎が戻ってきたのである。一刻くらい経ったのではないかという気がしていた隼太郎にとっては、何はともあれ最も安心の出来る人物が戻ってきてくれて人心地着いたのだった。
 ところが。
 剛次郎は背中に誰かをおぶっていた。
 板間の上にすとんと軽やかな音を立てて下ろされたのは、痩せた小柄な老爺だった。
「小便を済ませて薪になりそうな木々を拾いに行こうと下ったところに、この爺さんが蹲っていた。如何したと訊ねると――」
「へえ。足を挫きやして」
 老人は頭を下げ、左足を引き摺るようにして横座りになった。
「太吉と申しやして村の者ですがァ。明日にも孫娘等が久方ぶりに来るいうもんで、山菜でも食わしてやろうと山に入りました」
 よく喋る老人である。隼太郎は自然と剛次郎と目を合わせた。
「それが慣れねえ雨ん中を歩っとったもんだで、つるんと滑って気付いたらこうなっとりました」
 太吉は足を擦りつつ、前歯の欠けた口で笑った。
「いやあ、お侍さんに会わねかったらわしらあのまま落っ死んどったで、助かりました」
 両手を合わせ、剛次郎を拝むようにする。
「礼はいい。爺さんも早く泥を乾かすがいい」
 と、剛次郎は淡々と言い、再び板間に腰を下ろした。
 隼太郎は太吉の隣に腰を下ろした。とにかく陰々滅々とした雰囲気の中で、太吉という老人が唯一の安心材料になりそうである。
 堂の外で、遠く馬の嘶きが聞こえた。伊織は火の前を離れ、一旦外へと出た。
 そして、「少し空腹で馬の気が立っているようです」と言って再び戻って来た。そうした馬をどのように宥め透かしたのか、隼太郎には判らない。
 とまれ、堂の中へ入ってきた伊織は泥濘に汚れたのか、足袋も脱ぎ、袴も取っていた。
 隼太郎の脇へ座り、四名は焚火の前に居る知海のみを残して半円の形を描いたのだった。

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