(五) 

 闇夜であった。
 鐘が鳴った。これで二度目、つまり一刻余りを坂道を見下ろす潅木の中で過したことになる。
 隼太郎の首筋も足の甲も、既に藪蚊に食われて、赤い斑点を幾つも作っていた。闇の中でただもぞもぞと草鞋の紐の間を掻く。
「掻くんじゃない。覚られたらどうする」
 小声で背後の剛次郎が言った。ぷん、と甘い微醺(びくん)が香る。剛次郎は、少し酒を帯びている。
「酒でも飲まないと、勢いがつかないからだ」
 勇ましいことを言う。かっと見開いた剛次郎の白目が、隼太郎の間近にあった。充血している。
 さすがに家老・服部半蔵、酒井孫八郎兄弟の従弟に当るだけのことはあるが、実はそういう剛次郎とて、酒気なしでは怖気に駆られそうになったのではないかと隼太郎は思った。
 隼太郎がこの御役目を仰せ付かったのは、昨晩のことであった。
 大久保陣屋に宿泊している父・十左衛門が隼太郎のいる勝願寺に密かに訪ねてきた。
 御小姓をつとめる隼太郎が主の傍を離れるのは、交代の時である。
 主君が御寝あそばしてのち、隼太郎は一人、供待の間へと行った。主の腹心ともいえる家老の父は、所用あらば必ず主の面前か客間に通される。供待にいるということは、不穏の事ありという意味に他ならない。
「こんな夜分に父上」
 隼太郎が訝ると、
「御前様はつつがなく御休みになられたか」
「然様にございます。連日の会議で、大層お疲れになっておいでですので」
「それでは、明後日にでも馬を用意して、遠乗りでもして頂き、お気を紛らわせて頂こう」
 十左衛門は柔和な声で言った。隼太郎は背丈は五尺八寸ほどあって高いが、幾分厳つい父の顔には似ず、母似の細面だ。こうして面と向かっていても、はっきりと親子だと判る者は少ない。
「女性(にょしょう)は」
「いえ。謹慎中でもあり、そういう気分ではないと方々に仰せでした」
 隼太郎は伏目勝ちに答えた。
 主は元々閨事にそう執心な性質とも思えず、とりわけ今は国の危急存亡の時ゆえに、主戦を貫くか恭順に傾くか議論沸騰している家中のことで頭がいっぱいなのである。
 しかし、その主は時折夜遅くまで詩作に耽っている。
 丸を大きく書いた没作を只遠目に見るともなしに見ていると、それは恋の歌ではないかと思われた。
 会津宰相に宛てる詩とも、米沢の姉君に宛てる詩ともいえない。
 いつから主はそうなのだろうか。
 隼太郎は大坂で置き去りを食らい、江戸に戻って来てから暫くは御小姓の名目はあるものの、主の謹慎に従って職を離れていた。江戸のその時期、主の世話をしていたのは霊巌寺の小坊主と最も若い小姓の一人のみであった。
「御前様は御前様で、言い知れぬ密やかなものをお抱えなのだ」
 と、隼太郎は平素は屈託の無い勝気な若い藩主の人知れぬ懊悩を思い遣った。
「頼まれて欲しいことがある」
 十左衛門がそう切り出したのは、そうした会話の余韻も冷めぬ時であった。
「明晩、此処へ客人が来る。その者を斬って欲しい」
 えっ、と隼太郎は絶句した。
 十左衛門は顔色一つ変えずに淡々と言う。
「おぬし一人でとは言わぬ。高木剛次郎にも同じ事を昨晩伝えてある」
 剛次郎も御小姓組である。今朝顔を合わせていながら、全くそのような沙汰があったなどとおくびにも出していなかった。
「おぬしら、幼い頃より同じ道場で学び、喧嘩し合いながら、心を合わせてお勤めしてきたであろう。そのおぬしらゆえに、頼みにするのだ。他の者同士ではそうはいかん」
 隼太郎は俯いた。重大事を宣言されたのだ。
 人を斬ったことがないわけではない。鳥羽・伏見の戦、そして大坂より紀伊へ落ち延びる時に、隼太郎の刀は初めて血の味を知った。思いがけず己に度胸が据わっていることも。
「判りました」
 隼太郎は面を上げた。
「して。その斬るべきお客人とは」
「吉村権左衛門」
 隼太郎は、今度は声を上げなかった。嫌な勘が的中した。御在所に客人などといって、他藩からあるでなし、西軍の使者でもなければ大体の予想がついた。
 家老・吉村権左衛門。主が江戸に帰還せし時から藩を挙げて恭順を主張し、柏崎に移ってからというもの、陣屋在任の者も含めて、益々その勢力を盛んにしていた。
 抗戦派である父・十左衛門とはことごとく対立することとなった。
 だが、吉村と十左衛門とは同年であり、本来肩を並べてこれまで藩の為に尽くしてきた。見解の相違はあれ、討つ必要があろうか。
 或いは吉村を謀殺してまで、新政府軍に逆らうべきか否か。
 隼太郎には判らない。茫然となった。
「上意である」
 十左衛門は声を絞った。隼太郎は、父家老の鬼気迫る表情を目の当たりにした。
 脂汗が、握り拳の中に溢れ出した。
 こんな恐ろしい父の顔を見たのは、初めてである。
 悪戯をして叱られていた幼子の頃とは、訳が違う。まるで不動明王の如き形相に思えた。
「じょ、上意と申されますは」
 漸くのことで、隼太郎は声を出した。
 すると、十左衛門は寄せていた眉根を開いて、表情を崩した。
「訊くな。訊くでない」
「御前様がそう仰せになられたのですか」
 十左衛門は答えなかった。答えが無いのが、答えともいえよう。
「まさか。真に殿が吉村様を」
「おぬしが差出口を挟むことなど、何一つ無い。上意に従え。後のことは案ずるな」
 隼太郎は項垂れた。十左衛門と主との間に如何なる会話が交わされたのかは、知る由も無い。
 だが、隼太郎にはあの明朗な主がもしそこまで思い詰めていたというのなら、何故柏崎まで吉村を連れて来たのだ、と遣る瀬無い心地にもなった。
 恭順派は、彼等で国許に残しておけばよい。
「わしは明日より会津へ交渉に行く。くれぐれも気を付けよ」
 十左衛門はそう言い残して、勝願寺を去った。

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