(六) 

 翌朝、隼太郎は剛次郎に襟首を掴まれるようにして寺の裏庭へと呼び出された。
「お前、逃げ出そうなんて考えてはおるまいな」
 剛次郎は、目を光らせて詰問した。
 隼太郎は一瞬の躊躇ののち、激しく首を横に振った。
「ならばよい。本日酉の刻までは、おれが御前様の側居をつとめる。以後、吉村や寺の者に覚られぬよう抜け、粟島小路まで行き、潜んで待つ。お前は四半刻程遅れて出ろ」
 ということは、つまり主君が吉村の退出時刻を按配するということなのか、と隼太郎は憮然となった。
 しかし、隼太郎は素直に剛次郎の指示に従った。
 それから、この粟島小路に辿り着くまでの時間の長さといったら。紀伊から品川まで、海路帰還した時の途方も無く感じた長さと勝るとも劣らぬほどに思えた。
「来た」
 剛次郎が短い息を吐いた。
 微かに、黄色い提灯の灯りがちらほらと揺れている。蛍火の彷徨うが如くであった。
「おれが立ったら、同時に出ろ」
 剛次郎は言った。
 提灯がいったい吉村を導くものであるのか、そうではない余人の為のものなのか、その事にすら逡巡は無い。端からそうであると、剛次郎は決めている。人違いであっても有無を言わざす斬る、という鼻息なのだろう。
 やがて、揺れながら近付いてきた提灯の火が止まった。二つ井戸と呼ばれる井戸の付近であった。
 それを合図のように、剛次郎が飛び出す。隼太郎も続いた。
「何奴か」
 吉村の低い声が誰何した。小者の提灯がやおら上がり、隼太郎と剛次郎の顔を照らし出した刹那、剛次郎は抜いた。逆袈裟に小者の持つ提灯を斬り上げる。まだ少年と思しき小者の顎を割って、刀は一閃した。
 ぎゃっと声を立てて蹲る小者には目もくれず、剛次郎は吉村に突進した。だが、吉村も若かりし頃は柳生新蔭流の免許を取得した腕前。すかさず、抜き合わせた。
 剛次郎は怯まず八双から、吉村の右脇腹を突いた。
 隼太郎はよろぼうた吉村の傍らに摺り足で寄り、抜き打ちを浴びせる。
 これが致命傷となるだろう。
「もうよいだろう、行こう」
 隼太郎は剛次郎をせかせた。前のめりに倒れた吉村は、既に絶命しているのか、ぴくりともしなかった。
 剛次郎は首を振る。
 吉村の背にもう一突き入れ、更に向き直って、小者を背中から斬り下げた。
 生き返ってはまずい、と剛次郎の血走った眼が隼太郎に強く語っていた。
 路傍に燃え盛る提灯の灯りと遺骸を残して、二人は闇に姿を紛らせた。そのまま御在所には戻らず、只管(ひたすら)東へ向かって逐電したのである。
 後の事がどうなったかは判らなかった。
 父・十左衛門は会津へ行き、己が吉村殺害に関与していない証拠を作ったと同時に、軍事局に根回しをしたようである。水原(すいばら)へ辿り着き、会津方の人間に面会を求めると、「確かに山脇殿はお見えになられたが」と言われ、隼太郎はほっと胸を撫で下ろした。
 ところがそれも束の間。会津軍事局からは入国の許可が下りなかった。
「国法を犯し、上士を殺害した重罪人を入れるわけにはいかぬ」
 というのである。どうにも聞き入れられず、まさか上意討ちであるとも申し開きが出来なかった。
 否、主君の密命を暴露するわけにはいかない。
「どうする剛次郎」
「柏崎には戻れぬ。会津にも入れぬなら、何方かの幕軍に潜入するしかない」
 そうして二人は放浪した。朝日が昇ると歩き出し、村々を巡って西軍の状況を確かめつつ移動した。
 時には百姓の扮装をしたり、物売りに化けたりした。へとへとになって眠りに就くと、隼太郎は決まって夢を見た。
 闇の中から揺れる灯が見える。
 その灯は一つではない。
 隼太郎の方が歩み寄っているのか、それとも灯の方から近付いているのか判らないが、段々と大きくなったその橙色の光が、隼太郎の目の前を覆う。眩さに目を閉じた。
 灯が消えたと思い、ゆっくりと眼を開くと、白ちゃけた吉村権左衛門の顔が迫っていた。吉村の額はやがて朱に染まり、別の顔に変わった。提灯を持っていた小者の顔である。
「上意なり、御命頂戴」
 剛次郎の声か己の叫びかはわからぬが、その声とともに視界は紅に塞がれ、隼太郎は目覚める。
 梅雨時の蒸し暑さも手伝ってか、必ず背中も顔も、何処をと言わず全身ぐっしょりと汗に濡れているのだった。
「――どの、舘どの」
 揺り動かされて、隼太郎は大きく息を吸い込みながら目覚めた。
 傍らに、別所伊織の整った美貌があった。心配気に覗き込む伊織、そして太吉、剛次郎、知海の面々。どうやら少し眠り込んでしまったらしい。
「夢にでも魘されましたんかいの」
 太吉老人が笑った。意味ありげな目付きで剛次郎を見、隼太郎を見た。
 隼太郎は剛次郎を見たが、彼は俯いている。そうして何気無く視線を左に移した時、思わず隼太郎は喉を鳴らしてしまった。
 知海の隼太郎を見る目付きに、只ならぬものを一瞬読み取ったからである。
 蛇が獲物を見つけた、その無機的な殺気の漲る双眸を、ほんの僅かな時であったが、隼太郎を凍り付かせるには充分だった。
「急度、酒に悪酔いして奇妙な夢でも見られたのでは。少し外に出て、頭をお冷やしなさい」
 伊織はやさしく言い、隼太郎の手を取り袖を引いて立ち上がった。ぼんやりしているうちに、隼太郎は観音堂の外へ出されてしまったのだった。

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