(七) 

 外は暗い。いまだし雨は降り続いている。
 戸を閉めて堂の軒下を東側へ回ると、椋の木の下に馬が繋がれているのが見えた。
 伊織は懐から出した手拭を、そっと隼太郎に差し出す。
「拭かないと冷えます。酒は、実は体を冷やす物にございますゆえ」
 すると、隼太郎は差し出したその手首の最も細い部分を掴んだ。質すには今しかない。
「貴殿は何者なのだ?」
「お待ち下さい」
 と、伊織は小声で首を振った。声は実に落ち着いている。
 だが、隼太郎は離さなかった。
「旧幕臣と匂わせて、西軍の手の者ではあるまいな」
 酒を飲み血腥い夢を見た後である。気が昂ぶっている。
「何を根拠に仰る」
 伊織は冷たいまでの反応を示した。それが、隼太郎の癇に障った。
「西軍の者でなければ……」
 柏崎からの追手であろう筈はないが。間諜であるなら、斬るも止むを得ないだろう。
 隼太郎の無骨な手が、伊織の胸倉を掴もうとした時、油紙に包まれたそれが指先に触れた。
「これは」
 今度は、伊織が隼太郎の手首を握る番だった。
「御覧あれ」
 油紙の中から書状が現れた。
 開かれた書状の手跡を見て愕然となった。それは、隼太郎の主君の筆跡だったのである。
 間違いは無い。署名もあった。
 しかも、其処に記されているのは、紛れも無い恋の歌であった。贈られた女性の名が「別所琉璃」とある。
「松平越中守様――我が殿からの」
「琉璃というのは、私の本名です」
 伊織はそう言いながら、襟元を正した。隼太郎は一気に酔いが醒めた。
 何という事だ。
 己は主君の想い人に、無礼を働こうとしてしまった。反射的に一歩退き、その場に蹲踞せんと身を屈めようとするのを、伊織は止めた。
「貴殿を咎めるつもりは、ございません。女子一人で方々を巡っていると、何事にもよくあるゆえ慣れっこです。それに、私は桑名中将様にとっては、いわば只の歌の御指南役を仰せ付かっただけの者です。貴殿のお考えのような間柄ではないのです」
 隼太郎は顔を上げた。
 そうは言いながら、伊織の口調に何かしら潤ったものを感じる。
「貴殿らが桑名の御家中と知って、安堵致しました」
「我等の素姓は決して口外なさらないで下さい、伊織どの」
 隼太郎は声を潜めて、言った。
「追われているのですか」
 伊織は、再び懐の中へ書状を仕舞った。
「詳らかにお話しするには、今は時間が無い。我々は上意によって家中の重臣を殺めました。父の手筈で会津領内に潜伏出来るものと考えておったのですが、峻拒され、己むなく此処等を放浪しているのです。いずれ、幕軍に身を投じ、やがては主君に再び見えんと」
 隼太郎は口迅(くちど)に言った。
 伊織はしっと己の唇に手指を当てた。そして、隼太郎の耳元で囁いた。
「もう戻ったほうがよいでしょう。お連れの高橋殿が危ぶまれます」
「え」
 隼太郎には、何の事か判らなかった。
 訊き返そうとすると、既に伊織は堂の扉を開けたところだった。
 観音堂の中は、別段変わった事も無い。座談は結局、話好きな太吉老人の独壇場であり、剛次郎と知海の口許からは、軽い笑みが零れていた。
 車座の中に戻って話を聞きながら、隼太郎はしんみりと、主に対して申し訳無い心地と己が情け無い気分に苛まれた。男装の美女は、凛とした佇まいで何事も無かったかのように、笑っているのだったが。
「それにしても、剛次郎に一体何事か」
 訊くに訊けないまま半刻程過ごし、やがて酒も尽きたので、一同は仮眠を取ることになった。
 太吉老人は板間の手前に、伊織は最も火に近い所に、知海は堂の角奥に、そして剛次郎は老人の左隣に、隼太郎が板間を外れた場所に筵を敷き、膝を抱いて目を閉じた。
 梅雨時とはいえ、尻と足元から嫌な感じの湿っぽい冷気が這い上がってくる。また、夜中に小便にでも行きたくなりそうな気がした。
 どれ程経った頃か。
 誰かが立ち上がり、堂を出て行った。ややあって、雨音を従えて戻って来る。
 剛次郎であるらしい、と隼太郎は薄目を開けて見た。
 だが、剛次郎は老人の側には戻らず、伊織の傍らにしゃがみ込んだ。
 ためつすがめつし、犬が臭いでも嗅ぐ様に女の顔を見てから耳元に何事か囁き掛けている。
 何度か声を聞いて、伊織がはっと暗中で眼を見開いた。
 剛次郎は伊織の肩に手を掛け、勢い襟元を押し下げた。
「莫迦者」
 隼太郎の心が叫んだ。
 抗う女の脚の間に、剛次郎は袴を脱ぎ捨て、割って入ろうとする。夜目にも白い凝脂のような太腿が露になった。隼太郎は、息が詰まった。
「早まるな剛次郎、その女(ひと)は御前様の――」
 と、叫ぼうとして声が出なかった。
 既成事実はどうあれ、主君の女に手を出すなどと、あってはならない。
 露見すれば命は無い。ならば止める。剛次郎を殺しても止めねばならぬ。
 隼太郎の双眸は、大きく開いていた。鯉口を切りつつ、立ち上がろうとする。だが、隼太郎の足は、もう一歩踏み出すことが出来ずにいた。
 ふと、剛次郎の背中に黒い大きな影が落ちた。
 それは、隼太郎のものではなかった。
 きらりと光る物が、男の手の内にあった。隼太郎が金縛りから解けたように、あッと一声叫んだや否やで、刃は剛次郎の背に吸い込まれた。
 だが、斃れたのは剛次郎ではなかった。いが栗頭の大男、知海であった。
 剛次郎の身は傷一つ無い。知海は仰のいて倒れ、剛次郎が振り返った時初めて、隼太郎は誰が僧を刺したのか知った。
 刀の鞘のみを両手で握り締めた伊織が、隼太郎を見た。平行に投げ出された白い腿に、僧の流した赤い血が滴っていた。
 知海は絶息していた。寸分違わぬ正確さで、背中から心臓の真下が抉られていることに、隼太郎は驚愕した。
「さて、芝居もここまでにするかの」
 嗄れた声で血刀を拭ったのは、太吉老人であった。隼太郎は茫然となったまま、剛次郎が素早く着衣を直し、伊織が老人から刀を受け取るのを見ていた。
「し、芝居というのは」
「話せば長い。まだ、どのみち雨は止んでおらん。明けてからゆるりと話そう」
 太吉は言った。
 やがて、腰を下ろした四名の頭に薄っすらと東の方角から陽が差し込んで来た。
 土間に寝かされた知海の屍の上にも。

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