(九)
「孫右衛門どのは敵討に出られたのですね」
隼太郎は問うた。太吉老人の横顔に、朝陽がくっきりと陰影を結んでいる。老人は頷いた。
他でもない、細井孫右衛門とは太吉老人その人なのであろう。
「だが、若い頃多少天然理心流を齧っただけの老いの身では、各地の道場でならしていたという屈強な男に敵う筈もなかろう」
老人は歯の欠けた口で、笑った。
「それに、太吉の足どりを掴むは容易ではなかった」
敵討とは、そういうものである。国を越え、身分を偽り、姿を変えて転々とする敵を探し当てるのは、困難を極める。よしんば見付かったとしても、己が年を取り過ぎてしまったり、或いは志半ば旅の途中で息絶えたり、相手が既に死んでいることもある。成功することなど滅多とない。
その労苦の多さを慮っても、孫右衛門は決心を崩さなかった。
「酒田のご城下に着いた時であったよ。太吉とその弟と思しき二人連れがいた、という寺があって、わしは其処へ急いだ」
漸く敵を討つ機会が近付いた、と老人は喜んだ。敵に会うなど、万に一つも無い程の幸運なのである。
しかし、寺を訪ねた孫右衛門は愕然となった。
寺の住職から聞いた話では、太吉と弟は行き倒れ同然のようにして、境内の隅に蹲っていたという。寺男が発見し、保護してやった。
行く宛も職もないという兄弟の話を、住職は親身になって聞いてやった。太吉は身体を洗い、飯をたらふく食べたあとで、身上を語った。
「実はそれがしは、己の欲心から昔の女にほだされ、身に沁みた貧乏暮らしの嫌気から金に心を奪われ、妻となった女まで殺害してしまったことがございます。恩を受けた岳父にまで、酷い仕打ちをして逐電してしまいました。ところが後ろ楯がなくなり、金も尽きたそれがしに女は愛想をつかして出て行き、罪を犯したという事から関東へも戻れず、当然士官の口などもなく、乞食同然に何年も彷徨うておったのです」
太吉は目に涕を溜めつつ、訥々と語った。
「それもすべて、それがしの身から出た錆。どのような因果に巡り合おうとも致し方ございませぬ。なれど、この弟だけは」
太吉の弟は何もしていない。只、兄に従ってきただけであるという。
「御坊様、それがしは貴方様のお慈悲に与り、目が覚めました。この場で頭を丸めとう存じます」
そう言って、太吉は何度も首を垂れた。
「孫右衛門はがっかりした。出家した男を今更敵と言って、名乗り出で討つことが出来ようか。剃髪してしまえば刃物も持たぬ。太吉など恐るるに足りん。だが、素手の相手を幾ら敵と言って闇討ち出来ようか」
老人は大きく長い息を吐いた。
「弟のほうは如何したのですか?」
隼太郎は訊いた。
「太吉は住職の元で修行をすることになり、弟は本寺で小使になった。柏崎の勝願寺じゃよ」
えッ、と隼太郎は瞠目した。剛次郎も伊織も、黙って隼太郎の顔を見遣った。
隼太郎の脳裡に、再び悪夢が甦った。吉村権左衛門の顔、そして小者の顔。
老人は、一息おいて胡坐になった。
「京で戦が起こり、東海道を下ってあわや江戸へちゅう騒ぎになった。御役御免で謹慎になった桑名のお殿様が柏崎の分領へ来なさるというんで、皆浮き足立っとったらしい」
太吉の弟は、初めて見る貴人を物珍しく思ったかもしれぬ。気さくで若い主君は、下士であろうと寺の小者であろうと、気安く声を掛けただろう。
隼太郎の知る松平越中守定敬は、そういう屈託の無い人物である。
しかし、彼等が勝願寺を御在所としなければ。柏崎に来なければ。
太吉の弟の身に災いが訪うこともなかった筈である。
「閏四月三日の晩、弟は何者かに斬殺されたそうだ。桑名藩家老の吉村様の提灯持ちをしておってな」
老人は、隼太郎と剛次郎を順繰りに見定めて言った。
遺骸は勝願寺に戻った。吉村は、実弟の鵜飼兵右衛門に引き取られ、別の寺へ葬られることとなった。勝願寺住職の報せを受け、弟の死を知った太吉は憤った。
悲憤と遣る瀬無い想いを堪え、出家の身である己を戒めようと試みたが、辛抱し切れなかった。
そうして、太吉は住職に何も告げず出奔した。
「その太吉が……」
隼太郎は筵の膨らみを見詰めた。
「弟の敵を探して逐電したのじゃよ。その敵を見付けて必ずや、敵討をしようとな」
老人の言葉が終わらないうちに、剛次郎が立ち上がり、筵を引き剥がした。
「だが、己の因業は免れ得まい。太吉本人を敵とする人間に、先に出会ってしまった」
剛次郎はそう言い、伊織の冷めた顔色を一瞥した。
「伊織殿が堂に入って来た後、おれは小便をしに外へ出た。爺さんと会ったのはその時だと言ったが嘘ではない」
剛次郎は直感した。こんな山間
(やまあい)に用も無く老人が上って来る奇怪さを。杣
(そま)をやる程の体力があるとも見えず、第一目付きに只ならぬ物を感じた。
伊織を追っているのかと訝り、問い質してみようと思った。
何故そう考えたのかは、剛次郎自身にもよくわからない。すると、老人の方から剛次郎に声を掛けて来たのだった。
「お前さんは観音堂から出て来られたのか。今し方、若い女子が先に一人、後から大柄な願人坊主の様な男が入って行っただろう」
剛次郎は頷いた。尤も、僧の方ははっきりと見ていない。老人は剛次郎の背にへばりつくようにして、次の言葉を囁いた。
「今夜あの女子が僧に為そうとしている事を、決して口外してはならん。堂の中で起こることも一切総て」
謎掛けのような口説に、剛次郎は興味をそそられた。
そうして、老人は一部始終を剛次郎に語り尽くした。
「成る程、その女子がおぬしの敵討の先導をするというのか。如何なる経緯があったか知らんが、女子一人にさせるのは酷ではなかろうか」
剛次郎は、老人にそう言った。
「どうせおれの手も血で穢れている。穢れついでに、加勢してやろう」
「それは有難く存じますが……」
「堂の中にはもう一人、おれの連れがいる。奴は真っ正直な男なので、決して余計な事を喋るな。事が終わってから総てを語る」
剛次郎は老人を、そう諭したのだった。成り行きはこうである。
隼太郎は、親友の飄々とした表情を見た。些か疲弊した横顔ではあるが、精悍な面差しが知海の死顔を凝視していた。
剛次郎が老人の話に乗り気になったのは、太吉の弟が斬られたというくだりを聞いたからに他ならない。
まさしく孫右衛門老人にとって、敵である太吉こと知海には、隼太郎と剛次郎という敵が出来た。
哀れにも、太吉は己が狙う敵によって死んだ。
老人も、隼太郎と剛次郎の正体を知らない。
「決して言うなよ」
隼太郎を見詰める剛次郎の昏い双眸が、そう語っていた。隼太郎は、暫しその眸から目を逸らす事が出来なかった。
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