あとがき
よく、長州藩が幕末における封建制をうちこわしたなどという。高杉晋作の作った奇兵隊は百姓や力士、猟師等で編成されていた。たしかにそういう意味では画期的で、高杉の発想は抜きん出ていたと感心する。かれは旧態依然とした佐幕派を退け、倒幕の道を突き進もうとして志半ばで倒れるが。
しかし、肝心の「もののふ」が数百年という安穏の生活に堕落し切っていたのは、幕府こそ大元に違いない。旗本らは戦を恐がり尻込みし、飼いならされた大名連中はなあなあの国事に身をゆだね、己さえよければいいという有様。百姓や町人のバイタリティを主とした新選組が活躍するのは、幕府もそういう末期状態だからである。
本来なら、御家門、親藩である会津藩や桑名藩が不逞浪士鎮圧と京の治安に出張る必要は無い。いわば徳川宗家の親戚筋が、番頭である譜代のやる仕事に容喙するほど、事態は切迫していたとみなしてよいだろう。それだけ人材不足だったわけである。
そして、会・桑兄弟はあたら正義感に駆られて歴史に振り回されてゆくのだが、結果どうだろう。
薩長の作った政府は一部門閥のみが支配し、故郷を捨て東京に遷都し、結局は身分制を残したまま、否、こんにちも根強く残る部落差別の悪面のみ強調するという汚点を残してしまった。現在の山口県、鹿児島県を見て欲しい。萩国際大学には維新学という学問が存在したが、いまやその大学そのものが倒壊しつつある。これがこんにちの日本につながる人材を輩出した街なのか。去年の五月、実山口市から萩市を通り過ぎたが、いつもここを通るたびに異様なまでの首都圏一極集中という弊害が、悲しく思える。私は、これが高杉らの望んだ世界だとはけっして思わないが。
また、現在の桑名城跡・九華公園の鎮国守国神社裏手にある、松平定敬撰文の戊辰戦争招魂碑の碑文には、
「忠哉義哉、桑名士民、守節取義、各殉其難。郷党追慕、建碑招魂、嗚呼忠節、永照千春」
とある。
結局は帝を担ぎ上げて尊皇を気取り、おのれ等が政権簒奪したかっただけではないか、という松平定敬の心の声が聞こえてきそうだ。敢えてその虚実を見抜きながらも不利な戦いを挑んだ己が、数多の藩士を巻き込んだことを悔やんで憂えている。憂えながらも、痛烈な皮肉のようだ。なぜなら「忠」と「節」が二回も出てくる。同節に同じ文字は使っていないが、一文の中に通常同じ漢字は用いない。敢えて二度使おうとしたとしか思えない。そこに定敬の意図が汲めるではないか。
その硬骨の精神は、きっと少年時代から持ち得たものであろう。
物語では、所謂有名な「桜田門外の変」と「坂下門外の変」を取り上げてみた。スパンとしては長いが、事件そのものの掘り下げ方は浅くした。真剣に描こうと思ったら、水戸藩側からと長州側も含めて実に込み入った事になってしまう。それは本来、「松平定敬少年の視点で描く」というポイントを逸脱してしまうので出来なかった。
本当を言うと、安藤信正の腹心でもあった堀織部正の切腹事件も含めて安藤サイドも描くべきなのだが、やはり視点は少年なので。年上の娘に憧れてしまうような感情も入れてみたが、実はその娘は……というような結末に。
フィクションなので辻褄合わせはどうにでもなるものだが、書き終えてみると、定敬が養子に入ってからの家臣との位置関係、容保と定敬の城内での居場所、掃部頭に会った時点はいつか、安藤とどうかかわったか、桑名藩屋敷と江戸城との地理関係など、細部で実は気を遣った作品だった。
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