(十四)
米沢→会津(慶応四年秋)
此文が貴方様のお手元に至るかどうか。三月に書付けたものも届いておらぬようですね。
まことに心痛し。はらわた断たるる思いは募るばかりで御座います。
貴方様にお会いすることかないません。
先般、内内に我が藩へ新発田よりの使者が参りました。合議の末、式部大輔様が大弼様の御代理として奉書をお持ちになる旨、決定いたしました。
米沢へはけしてお越しめされません様。
貴方様のお命大事。愚かな姉は只ただ、欽之助の無事をお祈り申し上げることしか成す術御座いません。
どうか、どうか此文が貴方様のお手元に届きます様。
枯れ果てて思ひたえなで真葛原うらみなるなん秋の別れ路
戊辰八月 幸
(十三)へ
(十五)へ
注:
【新発田よりの使者】…もう定敬がおとずれる時点では、米沢藩の降伏は決定していたとみなされる。その後9月5日、斉憲が足痛のため、茂憲が代理として新発田に行き、歎願書を官軍に出し、北越総督親王に降伏の意を表した。11日総督府に謁し、王命を奉戴し速かにするように命じられた。茂憲は15日に帰国して、18日官軍の先鋒となって荘内討伐に向った。また一方では、総督親王の命をうけ、家来を遣わし、会津の松平容保を降伏させた。