第五・六話〜シルヴァー・アイズ・アンダー・ザ・ムーン vampiro del HongKong あとがき


 かなり嘘吐きな話を書いているワタクシだが、この話はさらに嘘臭いんである。
 嘘をモノホンらしく思わせるところに、空想世界の醍醐味があるとは思うのですが、あまりにリアルだと、それはそれで別の意味で恐いものなんですね。そして、滑稽味が出てしまう。


§KWAIDAN§

 今回は吸血鬼ネタということで、実はワタクシは「怪談」が大好きでして。
 落語の怪談は、聴覚に訴える恐さがあってええですな。『真景累が淵』『四谷怪談』のようなオーソドックスなものから、落研で聴くようなものまで、それぞれ味がある。
 最近はそういう「恐い系」のアトラクションが遊園地やテーマパークにあるので、やってみたりもするけど、やっぱ生で聞くのがいい。外国のホラー映画はあまり好きではないのです。
 子供の頃から、漢字はおろか平仮名もろくに読めない頃から、恐怖漫画を読んでいた記憶があります。恐らくは、母親のシュミだと思うんですけどね・・・。タイトルもおぼろ。たしか『命の篠笛』だったっけ?着物着た少女が横笛を持ってて、その笛のお蔭であらゆる妖怪や怪現象を逃れていく・・・だったかな。『震えて眠れ』は、これも赤ちゃんネタ恐怖漫画の王道を行くようなストーリーだったと思う。実に恐かった、という事しか記憶が無いんです。


 小学校に上がると、図書室に行っては、よく小川未明の童話なんか(実はこれも恐かったんだよ。オトナになって読み返してみるとよく判った)と一緒に恐い話の本を借りて読んでいたモンです。
 その中で、群を抜いて恐かったのが、岡本綺堂『すいか』と、松谷みよ子『怪談を作る話』。今も、書いてて恐い。
 『すいか』は、読まれた方は御存知でしょうが、所謂ホラー調ではありません。もともと岡本綺堂は捕物帖など時代小説を手掛けていた作家で、漢籍にも詳しい。『青蛙堂奇譚』などは、中国の志怪小説(怪奇小説のこと)をモティーフに書いているくらい。ご興味のある方は中国の原本(『捜神記』『夷堅志』『聊斎志異』『閲微草堂筆記』『子不語』など)にあたってみられると、岡本綺堂の換骨奪胎の筆調の凄さが判るでしょう。
 『すいか』は、主人公自身についての描写はほとんどありません。主人公の伝聞としてMという友人の話。Mの友人である二人の男性が中心になっています。ご先祖様が起こした事件の祟りで、「すいか」を食べると死ぬという家系に生まれた男(すみません、名前忘れました。倉沢くんでしたっけ?)と、新聞記者の横田くん。この二人をめぐる怪談です。結局は、「氷すいか」を食って死んでしまうんですが、やな死に方でして。
 描写のところどころに現れる、不吉な感じが、「すいか」を只モンではない立派な殺しの道具に仕立て上げている、という綺堂の見事な作風にあっぱれです。倉沢くんだけに見える横田くんの幻影とか、ま、子供心には「何か判らんけど、すいか割ってカエルや蛇が出てきたら気色悪いよな〜。風呂敷包みの中が、すいかでなくて生首に変わってたら、えらいこっちゃ」というレヴェルでしか理解出来なかったんですけどね。
 何しか、すいか大好きのワタクシにとって、「すいか食って死ぬ」ということ自体が衝撃だったんです。でも、平気で食ってます。氷すいか最高。京都は氷すいか食わせてくえるところなくて、さみしいんですけど・・・。

 さて、『怪談を作る話』は、これはアンソロジーの一編でした。童話作家の松谷みよ子さんが書いているというのが、何とも不思議だったんで印象が強いのかも知れません。
 舞台は姫路。とある全寮制の男子高での出来事。柔道部が強い学校で、ある日そこの主将が部員と談笑しながら言いました。「伝統ある学校には、大抵七不思議とかがある。階段を上ったら12段だったのに、下りたら13段だったとか。うちの学校にはないのか?なけりゃ、俺たちで作ろうじゃないか」・・・というわけで、毎晩柔道部員が交代で、十二時になったらあるトイレの一室に立て篭もって「開かずの扉」を演出することになった。そうして数週間。「開かずの扉」の噂は学校中に広まり、ある日、剣道部員達がその扉が本当に開かないかどうか確かめてみようじゃないか、という事になった。さて、件の時間になり、剣道部員こぞって「開かずの扉」の前に並んだ。「誰か中に入って閉じこもってるんじゃないのか」と言ったが、返事はない。あまりに返事がないので、腕自慢の剣道部員が思い余って真剣を抜き、扉ごと差した。抜いた刀に血が滴り、扉は開いたが時既に遅し・・・。柔道部員は死に、本当に十二時になると、その扉は開かなくなったという。・・・ああ、やな話じゃ。
 話は戻って、岡本綺堂の怪談ですが、『白髪鬼』というのも、かなり恐い話なんであります。 


 日本人の作り出す怪談の恐怖っていうものは、西洋のキリスト教的原罪意識に基づいてないだけに、「死に対する恐怖」というものとは、かけ離れた位置にあるように見えます。外国映画のスプラッタシーンなんかを見てると、これはどうも「死」に対する恐れのイメージの変形でしかないな、と思える時があります。日本人の場合は、あっさり殺されないパターンが多いもん。恐怖に慄いて慄いて、慄きまくって死ぬパターンはありますけど、それでも死に方は普通。目ん玉抉り出されて、とかハラワタぶちまけて、とか無いもん。却って、肉体に対する執着心が薄いような気もしますね。スプラッタは、恥辱的なまでに肉体をめちゃめちゃにされますもんね。あれは土葬文化と火葬文化の違いかな〜。
 「死」よりも、自分が行った事への罪の意識とか、精神のありようとかが先行しているのが日本の怪談、とすれば、やはりスピリチュアルこそが命より大事な怪談の世界。
 それこそ、『雨月物語』の「菊花の契り」にある、「魂は一日九千里を駆ける」・・・この一言に現れているのではないでしょうか。これには泣けたよ。小学4年生にして。


追記:これを書いた直後、ちくま文庫から岡本綺堂集が発刊されました。なんちゅううぉんちゅうな奇遇!お金に余裕のある方は読んでみてください。


本編に戻る