(四)
「艶言花のごとく心忽ち揺らめき、春酒飴のごとく、はらわたすでに柔らかなり。実に遠くして近きは男女の情なり。太后すでに廷尉の膝による。廷尉、顔を合わせ唇を接す。太后、少し舌尖を出せども、胸悸戦慄なすところを知らず……」
小声で音読している斎藤の上から、沖田と藤堂平助が覗き込んだ。
「何を読んでるんですか」
言い掛けて、沖田はわっと仰け反った。
斎藤が開いていた本にどぎつい版画が摺られていたからである。男女のあられもない交合を描いた絡み絵だった。
「ちょっと斎藤さん、真昼間の縁側で読むようなものじゃないですよ、それは」
藤堂が顔を真赤にして言った。庭先を頻りと見比べる。藤堂の視線の先には、為三郎とおせいが居た。雨が降っているというのに、傘をさした二人がでんでん虫を集めている。軒先には、まだ顔の無いてるてる坊主が吊るされていた。
「一体誰が斎藤さんにそんな本貸したんですか?」
沖田が呆れたように言う。藤堂は、斎藤の手からひょいと艶本を取り上げた。『壇ノ浦夜合戦記』と鹿爪らしい題字が表紙には書かれていた。
「土方さんが読んでみろって」
斎藤は頬杖をつきながら言った。沖田と藤堂が顔を見合わせた。
漢文など別に読みたくもなかったのだが、土方はにやりと笑んで斎藤の耳元に唇を寄せた。
「頼山陽先生の作だそうよ。お前は刀にしろ女にしろ、生身にしか興味がないかも知れんが」
土方はそう言って斎藤の肩を叩き、艶本を押し付けて行ってしまった。
「ちくしょうめ、噂の出所は土方さんか。どうやらおれは相当の女好きだと思われてるらしい」
しかも、土方には自分と同類だと喜ばれている。それで、いやに沖田がおれに女の話などするのだろう。
確かに、女は嫌いではない。と、斎藤は艶冶な美妓を一人思い浮かべた。滅多に同輩とつるんで飲みに行かず、島原あたりに単身繰り出していたら、そりゃそうと思われて仕方ないか、と斎藤は苦笑する。
「気持ち悪いなァ、一人笑ったりして。斎藤さんのような人をむっつり何とかって言うんだな」
沖田がずけずけと言った。
斎藤は、ふと沖田を見て青柳亭の里世の顔を思い出した。
里世の目は切れ長で、やや吊り上がっているので大人びて見えるがが、唇が小さく柔和な印象がある。「やめとけ」と言ったのは、沖田の童顔と比べて釣り合わないからではない。何となくああいう雰囲気の女は斎藤の好みではなかった。見た目はおっとりしているが、心底で何を考えているのかよく判らないという気がした。無意識なのだろうが、男を試すような感じがする。
斎藤は、沖田と藤堂が行ってしまうと、開いた草紙を顔に被せて寝転がった。
監察の山崎烝、浅野藤太郎、川島勝司、島田魁の四名が桝屋をつき止めたのは斎藤が四条大橋のたもとで浪士たちに囲まれた翌日だった。
六月一日のことである。
川島らとは別班で南禅寺方面を張っていた島田、浅野が宮部鼎蔵の行方を追っていた。
南禅寺塔頭の天授庵は、肥後藩の宿陣である。そこを張り込んでいれば、或いは藩士から宮部への密偵が動く事も、宮部自身が動く事もあるかもしれないと思われた。
門前の茶店で客の振りをし、島田が休んでいると、菅笠の男が南禅寺から出てきた。
それが宮部の雇っている男衆、忠蔵だった。浅野がこっそり尾行して行くと、何と忠蔵は西木屋町四条の桝屋へ入って行ったのである。
桝屋は間違いなく尊攘派の巣窟となっている。宮部が匿われているという可能性も考えられた。
念には念を入れて近藤らは山崎に隣家の店を訪ねさせ、桝屋の評判をきくと、何やら主人の不審な挙動が見えてきた。
主人の桝屋喜右衛門は、三十半ばの上背のあるどっしりした男である。
先代が亡くなって養子である今の主人に代わると、何処となく素性のあやしい士分の人間や、町人を装っているがいわくありげな浪人者が、時々出入りする。商売の方は筑前様御用達であるゆえに上手く回っているようだが、喜右衛門自身がそう熱心に出歩いているわけではなさそうだった。近所づきあいもあまりないのだ、という噂が入ってきた。
屯所では、すぐにも踏込もうかという算段になったものの、二日の夕刻から雨が激しく降り出した。
今日は既に六月三日である。雨はまだ降り止まない。具足と刀剣だけは準備しておくようにと言われ、隊士達は待機している。
今朝になって、夜っぴての探索から戻った川島が、斎藤に言った。
「例の男なんですが。思うた通り、桝屋の裏口へ入って行きよりました」
宮部絡みの尊攘浪士か、と斎藤は腕組みした。だが、川島は怪訝な顔付きのまま、更に続けた。
「続きがあります。その男、小半刻して別人になりすましてやはり裏口から出て来ましたんですがね。今度はまた妙な処へ行きましたわ」
斎藤が傷を負わせた男は、町人風のなりをして麩屋町の青柳亭へと入って行ったのだった。
さすがの川島も、その時は呆気に取られてしまった。奉行所の下っ引である政吉の店へ、尊攘派の人間が出入りするなど前代未聞だ。
「どっかの表店の若旦さん風を装うとりましたがね。政吉が騙されとるんでないかと気が気でのうて確かめて来ました」
川島は虚無僧姿の笠を取り、面がばれるのを覚悟で青柳亭へと入った。夜もだいぶ更けていたが店にはその男の他に二人居り、何れも強かに酔っていた。政吉の姿は無く、里世が一人で接客していた。どうやら町奉行の動きも盛んで、政吉も駆り出されているようだった。
「男は喜助と呼ばれとりました」
後姿の年恰好は二十四、五といったところ。喋り方は江戸者のようだが、微かに西国の訛りがある、と川島は見抜いた。里世は、どうやら髭を蓄えて身を窶した川島には気付かなかったようだ。
「気になるんは、お里世さんといやに親しげに話しとったことですわ。まるで言い交わした男女の仲みたいに」
川島は眉を顰めた。
一刻ほど過したのち、喜助という男は青柳亭を出て行った。暖簾をくぐる時、川島は目だけ泳がせて素早く男の顔を確かめた。
「私の記憶に間違いなかったら、あの男は―」
川島の言った男の名は斎藤も知っている尊攘の大立者だった。
「けど、痩せていて人相も多少変わったような気がします。土方さんには報告しましたが」
斎藤は、それが本当なら、と沖田のことを考えた。
いや何にせよあの男が名のある奴輩にせよ、おれに真剣を向けてくるとは怪しからん。やはり二太刀を食らわせてやればよかった、と斎藤には珍しく後悔した。
ふと、斎藤の額に冷たい物が貼り付いた。慌てて艶本を払い除けると、為三郎とおせいのにんまり笑った顔があった。
為三郎の左手にはでんでん虫が蠢いていた。斎藤は跳ね起きるや、額に置かれたでんでん虫を引っぺがすと、庭先へ投げ付けた。
「ちくしょう、何をしやがる!」
「うわあ、斎藤が怒った、怒った」
と、為三郎は大喜びで叫びながらおせいと相合傘で庭を駆け回った。
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