(九)
夕闇が直ぐ傍まで来ていた。打ち水の匂いが露地に広がっている。風通しのよい八木邸の一間に、夏の薄蒲団が敷かれている。
斎藤が敷居を音も無くそっと跨ぐと、病人が振り返った。血の気の薄い沖田の顔が、少し綻ぶ。
昨晩の事が他人事のような静かな表情だった。ぼうしが折れる程の闘いぶりだった剣鬼の顔ではない。
斎藤は、暑い最中に鎖帷子を着込んでいた。
「これからまた見廻りですか」
沖田が言った。
「私も行かなきゃならないのに」
池田屋襲撃から一夜が明けた。しかし、引き続き市中を隈なく残党狩りに駆けずった斎藤らにとって、池田屋の騒動はまだ終わっていなかった。屯所に帰還するも束の間、暑気中りで病がちな隊士が多いゆえ、斎藤のように若い者は折り返し任務に就くことになった。
斎藤が気付いた時には、昨夜は既に沖田の姿は池田屋になかった。残党捜索に取り紛れていたので、その事を訊ねたのは明け方近かった。
「どうやらしたたかに後頭を殴られて、それでも剣を振るっていたらしいですが、土方さん達が到着するや、気が抜けて倒れたみたいです。藤堂さんも額を割られて。いやあ、此方は顔中血塗れで見ちゃいられんかったです」
沖田と藤堂の両人を戸板に載せて運んだ島田が、そう言った。
斎藤もさすがに夜っぴての斬り合いで疲労困憊していたのか、その時はそうと聞いて安心した。だが、人心地着いて思い直すと、妙な感じがした。
沖田ほどの上背の男がそう簡単に敵に頭を殴り付けられるものだろうか。幾ら狭い、天井の低い二階に上がって行ったとしても、階段の上から打ち下ろせば頭を割られる。そうではなくて後頭を押えていたというのだから、おかしいではないか。
それに、返り血を嫌う沖田が胸元から袖からべったりと血を付けていたという。兎に角狭いのだから無理もなかろうが。近くにいた永倉なら何か詳しい事を知っているかも知れない。
しかし、斎藤はそれ以上詮索するのはやめた。
知ったところで、沖田と斎藤自身の関係に何か変わりがある訳ではない。
「あんまり寝てないんでしょう、斎藤さん」
沖田は言った。痰が絡むらしく、何度か軽く喉を鳴らす。
ああ、と斎藤は答え、枕元に膝を折った。顔を近付けると、病人特有の甘い香りがして、沖田の身体全体から微熱が発せられているのが判った。
「連日雨の中をずっと見廻っていたからか」
「ただの風邪ですよ。何だか斎藤さんや土方さんが来たって聞いたら、気が緩んじゃったんでしょう」
くすくす、と沖田は笑った。そして、天井を見詰めると、枕の下に両手を上げて組んだ。
「宵山に行けないよな、ちくしょう。土方さんたら、寝とかないと二度と屯所から出さねえって言うんですよ」
沖田は、苦笑した。上気した頬は熱の所為だろう。小さな声で、
「お里世さんに伝えといて貰えますか?約束守れなくて申し訳ないって」
斎藤は、黙って頷いた。
「それから……お里世さんの大事な人を斬ってしまって御免なさいって」
沖田は大きく溜め息を吐いた。斎藤は、瞠目した。沖田は知っていたのだ。
「なかなかの腕だったよ。駄目だな。こっちも焦って左手しか落とせなかった。そしたら、誰かに思い切り殴られてさ」
独り言のように沖田は言って、目を閉じた。斎藤は来た時のように、静かに座敷を出た。
「ここからじゃ祗園囃子は遠すぎるな」
沖田の呟きが、ぽつんと取り残されたように響いた。軒先に、斎藤が小筆で顔を描いたてるてる坊主が揺れている。単純な線だが、目元が沖田に似ていた。
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