(一) 新潟奉行所を去る人々

 未明、風は凪いでいた。
 然れども、肌膚に食い付く様な湿気は嵐の前の静けさの如く影を潜め、長梅雨の季節をいっとき爽快に転じていた。
「むしろ風のあるほうが、ねっとりした潮気を運んで憂し。今朝は頃合もよし」
 松長(まっちょう)長三郎は、そう感じた。
 恰も色白く情の濃い新潟女が掌中を返したかのようである。
 冬は積雪の比較的少ない割に風寒く、夏はその潮気たっぷりのねちっこい海風に倦むこともあった。
「柳梢眉月夜微濛」
 "柳の梢に眉の月 夜はおぼろの曇り空"と、頼三樹三郎がうたった堀と柳の街・新潟。
 松長がその奉行所を離れて南下すること十数里。信濃川の支流に合する阿賀野川沿いの新津村に差し掛かっていた。
 昨晩は、川の分岐点酒屋(さかや)で一泊し、未暁に宿を出た。
 まだ、いぎたなく疲れ果てて眠っている部下を叩き起こした時、彼は大慌てで両耳を塞ぎ、あたふたと褥上を這い回った。
「うわあ、許してくれえ」
 どうやら夢に魘されたままなのを、反射的に飛び起きたので混乱したのらしい。
 松長が部下の額を軽く小突くと、彼はそのまま失神した。

 松長らが新潟を出発する前日、慶応四年六月一日のことである。
 新潟港は、それまで奉行白石下総守配下に治められていたが、実際前年の大政奉還以後、幕領は悉皆朝廷の物となっている。
 蓋し、いまだ各地の平定ならず朝廷軍は北関東の戦線で手こずっており、新潟まで統治する余裕が無いという事情から、幕吏の手に拠って運営されていた。
 ところが白石下総守千別は最高責任者として幕府に指示を仰ぐという名目で江戸へ出たきり戻って来ない。
 それが三年十一月二十七日のことであった。翌年になってから、新潟へ戻って来たものの、北陸道鎮撫使がやってきて引渡しを乞うと、白石は病気と称して協議を手こずらせた。
 これも、何とか幕領を渡したくは無いという算段ではあった。
 そこで表に立つことになったのが、二人の組頭である。
 田中廉太郎。御使番兼新潟奉行勤向。
 そして、松長長三郎。
 田中はやり手と言われる能吏で、松長は篤実な人柄を推された。
 さて。奇しくも二人が奉行代理となった四年四月朔日。
 新潟の街は、新たな災厄に見舞われることとなった。
 「衝鋒隊」というわけのわからぬ幕府軍の一隊が、進駐してきたのである。
 この一個大隊を率いるのが、古屋佐久左衛門という男だった。白石は古屋の訪問を受けた。
 松長もこの男を見た。
「容貌魁偉なり」
 骨太の大男である。それが洋学の秀才というのだから、奇妙なものだな、と松長は思った。
 新潟市中は見知らぬごろつき共がうようよし、商家には押し入る、妓楼を荒らす、酒屋は踏み込まれて只酒を飲まれる。
「これが幕兵かと目を覆いたくなるような狼藉ぶり。先程は、手先が斬られて重傷を負いました」
 と、松長の元へ部下が報告に来るという有様。
「どうせ江戸で食い詰めた冷飯食いや上州野州の博徒、おたずね者まで抱き込んだ軍隊。素行が悪いのは判り切っている」
 松長は嘆息さえも吐く必要が無い、という風に言った。
「さりとて、乱暴狼藉を捨て置くわけにもいくまい」
 田中と松長は話し合った。北陸鎮撫使への出頭が待ち受けているので、一先ず江戸へ行かねばならず、白石のみ送り届けた田中は一人帰任。いわば身代わりのようにして針の筵に座らされる事になるが、そこは流石にやり手と称される男だけある。
「新潟は米沢藩上杉家にお預けとする」
 そう腹を括った。
 妥当な考えといえた。
 そもそも新潟は、天保十四年(1843)迄、長岡藩牧野家の支配下にあった。更にそれ以前は上杉家領として、長らくその統治下にあった為、領民の上杉家に対する畏敬の念は根深い。所領こそ今は違えども、かつての統治者、東北の雄である米沢上杉家に譲ることは、至極自然の成り行きであろう。
「だが、田中どの。朝廷に引渡しをするまでの間、その策はやむを得ぬ仕儀としても、白石奉行の幕府への申し出は如何する」
 松長の懸念は、そこにあった。
 白石下総守は辞職にあたって「新潟港は会津預所に」と、申し出ていたのである。
「だが会津はなァ――」
 田中の顔色が沈んだ。
 越後の人民は、昔から会津を嫌っている。米沢藩は会津と手を組んでいるゆえ、他の小藩のいずれもが渋い面をするので困じているとも聞く。新潟とて事情は同じだ。
「会津預所とすれば、人民が一揆でも起こしかねん。ここはやはり、米沢だ」
「会津が首を縦に振りますかな」
「米沢が乗ってくれれば、問題はない。前線で手一杯の会津に余裕はあるまい」
 田中は断言して、米沢城下へ急使を送った。
 この時点で、紛うことなき厄災だった衝鋒隊や水戸の脱走兵達は、新潟から駆逐されていた。
 松長が出した一通の急報が、無法地帯と化していた街を救ったのだ。
 救世主は、長岡藩家老・河井継之助であった。
 江戸を引揚げてきて間もない河井は、一度港で出会うただけの松長の呼び掛けに応じて、従僕一人連れたのみで駆け付けた。
 馬上から無頼の餓狼の如き兵らを一喝し、町民らにやさしく労いの語をかける河井の姿に、松長は目を瞠(みは)った。
 直ちに、古屋佐久左衛門とその腹心である今井信郎を呼び付けて、説得した。
 河井の手管がどういうものだったか、松長は見聞きしていないが、衝鋒隊が早きに兵を退いたところを見ると、相当な手腕と胆力といえた。
「河井どの、何故危険を冒して単騎お越しになられた?」
 と訊くと、河井は目を細めてこう言った。
「ふむ。わしが兵力を率いて来たらば、却って体面上奴等は退かんだろうて」
 自身に満ちていた。
 田中は五月初旬も過ぎてから、新潟へ戻ってきたが、その時の状況を松長より聞いて、
「やはり長岡も新潟港を狙っておるのか」
 と、洩らした。河井継之助が掲げる富国強兵とは、新潟港ありきで、より強力な軍船、武器を外国から輸入し、商易を盛んにすること。その為に、旧長岡藩領であった新潟を取り戻すつもりではないのか
 松長は、「まさかその様に性急な」と思ったが、田中の考えではそうらしい。
 従って、窮地を救ってくれたとはいえ、河井の手に新潟を委ねることは出来なかった。
 尤も、五月十日以降、長岡方面では激戦に継ぐ激戦で、それどころではなくなっていたのだが。
 さて。
 米沢藩からは、越後派遣の色部(いろべ)長門という男と交渉せよという返答があった。田中は新津村にいる色部に使者を送り、内諾を得た。
 五月二十九日午後、色部は新潟奉行所を訪れ、慌しく引渡しの手続きを打ち合わせた。
 三十日の仮引渡しから一日と経たないその日、突然の出来事が起こった。
「蒸気船が二隻、港外に見えまする」
 洲崎番所から急進が入って来た。
 一隻に轡(くつわ)、もう一隻に源氏車の旗が翻る。薩摩の乾行丸(けんこうまる)、長州の丁卯丸であった。
 やがて、奉行所宛に文書が届けられた。
「奉行の代人、地役人の代表はすみやかに先鋒軍艦に出頭せよ。勅旨の委細はそこにて伝える」
 といった旨の文だった。
 田中は読み終えて、ふんと笑った。
「出頭せよとは片腹痛いわ。二度と陸(おか)を踏めんやも知れぬのに、その手に乗るか」
 新潟にはひっきりなしに異人、脱走兵が横行する。奉行所はその処置でてんてこ舞いゆえに、昨日上杉弾正大弼御預として仮引渡しを済ませた。と、返書を送り付けたのである。
 軍艦は果たして、三日夕刻に新潟を去った。
 しかし、その事を松長は知らなかった。松長が新潟を去ったのは、二日である。
 一日遅れで、やはり奉行所を去ることになっていた田中の身を案じつつ。

 酒屋の宿で寝惚け眼を擦っていた部下は、急度一日に沖で見た二隻の軍艦を夢に見たのだろう。
 水深測量を行い、小舟に移って黒い官服の男らが上陸する。
 備砲が唸り、空に灰色の煙を巻く。
 堀端の柳が薙ぎ倒され、無惨に裂かれ、路上に逃げ惑う町民。何処からともなく火の手は上がるだろう。女の布を裂くような悲鳴。商人の哀願。
 幕兵の行った以上の狼藉が繰り広げられるのか。
 美しい濠を埋める屍、どす黒い血河。
 もしかすると、この男もそんな憎むべき幻惑を見て魘されたか、と松長は失神した部下を叱咤する気にはなれなかった。
「恰も尻っ端折りで雨中逃げ帰る盗人の様だ、おれらは」
 そう思うと、腹の底が冷え冷えとした。
 余りに爽快に乾いた朝の空気が、心を虚しくさせたのかもしれない。
 騎乗の松長、そして徒歩の部下数名。荷車を牽く人夫が続いて街道を進む。

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