(十) 江戸の朝顔、新発田の杜若

 およそ一昨日からの事は、雲散霧消したかのように、六月十日は晴れ渡った。
 明け方まで小雨は残っていたが、それが功を奏したのか、大輪の朝顔が幾つも花開き、庭先に鮮やかな彩を加えている。
 半兵衛は、久々にこうして花を眺めた気がした。
 帰宅は深更で、実質睡眠を取ることが出来たのは、二刻余であるが、多少頭はすっきりしている。頭痛の種は朝顔の如く、ぐんぐんと芽を出し育ったが、今しばらくその成長が止むかどうか。
「よい色じゃのう」
 群青色の漏斗状の花は、妻が蒔いた種から育った。江戸詰めの藩士に嫁いだ義妹から貰った物をという。
 越後では流行らないが、江戸の界隈では朝顔や牡丹作りが流行していて、勤仕の合間に花作りに専心している武士も多いとか。内職として栽培する者もいると聞く。
 この朝顔を高値で取引される品種だと、妻は言っていた。
「だが、よい色味じゃが、所詮あれは江戸の花。新発田には杜若花がやはり似合う」
 半兵衛は、城の庭園に群生する深い青紫色の花々を思い浮かべた。尖った青葉は剣の清冽さで、花の色はあれは紛うことなく貴い主上の色。
「勤皇の新発田に相応しい」
 と思う。
 江戸の花である朝顔を見ていて、半兵衛はどうしても昨日の事を思い出さずにはいられなかった。
 尾州侯の別式女が登場してきたのだ。
「火急の用件というが、何の為に」
 半兵衛は訝ったが、許可し面会を受けた。
 女は招じられて、半兵衛の前に若衆の様な姿を現した。
「尾州侯奥向刀腰婦、奈彌にございます」
 半兵衛は奈彌と名乗る、この二十歳ばかりの女を前にして少し戸惑いを感じた。
 江戸屋敷に居たというこの女には、水際立った都会振りが備わっていた。洗練された立居振舞が、圧倒する。
「僭越ながら、ご進言差し上げたく罷り越しましてございます」
 奈彌は眦を引き締めて、言った。
「同盟軍包囲の打開策を授けてくれるというのか」
 半兵衛は直感した。半兵衛という最年少の御勝手家老を名指ししてきたのも、恐らくそれ故だろう。老獪な他の家老では、話どころか「女子の口出しするに非ず」と、取り合う気もないに違いない。
 その点、半兵衛はゆっくりと噛み締めるように言った。
「まずお伺いしたいのです。間もなく米沢との約定の刻限が参りますが、ご出兵はなされますのか?」
「然様」
 半兵衛は頷いた。
「而して、領民騒乱の首謀者二名を出頭させることと、今朝の会議で決定致した」
 会議は別邸に軟禁状態も同然の幼藩主を除き、家老四名と老公・静山公との間でなされた。
 差し出す首謀者も、折笠泰助と阿部求之丞に決定している。
「城をお捨てなさいませ」
 奈彌は言った。半兵衛は一瞬、唖然となった。
「御老公、藩主様以下全ての家臣、住民ともに城下をお立ち退きなさるが良策」
「何を申すか」
 それでは先日、米沢藩が示した厳しい条件を鵜呑みにするのと同じではないか、と半兵衛は思った。
「立ち退いて何とする。家臣五千有余、住民三万有余の大人数を何処へ配せよと言う?」
「着の身着のまま同盟軍に身を投じるのみ」
 と、奈彌は目元を細めて言った。気違いか、さもなくば捨て鉢の策である。
 半兵衛は失笑するしかなかった。すると、奈彌は見透かしたかのように、
「冗談や戯言で、申し上げておるのではござらん。もちっと、肝を据えてお考えあれ」
 恫喝にも似た低い声で言う。
「貴藩が幾ら同盟軍に恭順を示し、数百の兵を出したところで上杉大弼侯や会津が貴殿らに信用を寄せるとお思いか?既に貴殿らは三度、同じ策を用いて一寸逃れを行っておられる。それがわからぬ程、彼等は愚昧でもなければ、お人好しでもないのですぞ」
「重々承知」
 半兵衛は短く答えた。判り切っている事を指摘される程、気分の悪い事はない。
「城を明渡し、藩主様もろとも下関へ出頭なさる。此処までやってはじめて、同盟軍は二度と貴藩に刃を向けることはしないでしょう。そのおつもりがないと仰らば、すなわち貴藩には勤皇倒幕の志あり、とお見立て申した」
 ずばりと奈彌は言った。半兵衛は身の毛がよだった。
 尾州侯勤向なれば、勤皇の意を明らかにされたとて、恐れることはない。だが、奈彌というこの女、果たして嬉々として半兵衛の胸中を言い当てたのではあるまい。
「ご返答は結構です。ただ……」
 奈彌は言い澱んだ。
「我が公尾州大納言様は、早きに東海道軍鎮撫軍の先鋒となって、旧幕勢力を制圧なされ、主上の第一の臣下、御三家筆頭のお働きを存分になされました。今だ、尾州兵は会津討伐へ向かって進軍を続けております。が、我が公は堂上公家、薩長の主幹含む参議の御席にありながら、これまで何の相談も、朝廷からは賜っておりませぬ」
 半兵衛は息を呑んだ。
「かかる御三家においても、朝廷からは斯様な仕打ち。さりとて機を見、得に走るが真の勤皇には非ず。我が公こそ、真に尽忠の御方なりとお見上げ申し奉りまするが、貴藩は如何」
 奈彌は流暢な口説を止めた。
 尾張家が勤皇を護って何の栄誉も厚遇も被っていないというのは、半兵衛にして軽く眩暈を呼び起こさせるには充分な話題だった。
「確かに、利を見て動くは真の勤皇とは程遠い。だが、尾州の様な大藩ではない我が藩に機を窺うなというのは、余りに酷」
 とも思う。
 米沢、会津、庄内だけではなく、此処でも大藩主義との力の差を歴然と感じずにはいられなかった。
「一万石程度の藩なら、答えは明らかなのだ。圧倒的武力に敵うわけがない」
 十万石、その上新潟港という要衝に近いゆえに、懊悩は出来するのである。
「奈彌どの、一つお聞きしたい。もし仮に城を明渡したとして、そののち戦の収まったあと我々は如何すればよい?」
 奈彌は唇の端を上げた。
「出て行くのは丸腰ですが、只やすやすと行くのでは永遠に領地を失いまする。城を焼くのです。本丸御殿、天守、数々櫓もろともに火を放つ。あとに入城する者が同盟軍であれ、新政府軍であれ、主の居なくなった本巣をそっくりそのまま使われるのでは、面目もござらぬでしょう。かつ、城下へ渡してある橋は悉皆落とし、城門ごとに地雷を仕掛けるのです」
「地雷を?」
「さすれば、容易に外部の人間が領内をうろつくことは出来ませぬ。地雷の場所を御存知なのは、溝口様方々ということに。その上で、領民蜂起を促すと一層上々」
 一旦灰燼に帰し、占領が易からぬことを充分に覚らせて捲土重来とする。
「奇策なり。天晴れ軍師と言いたいところだ」
 半兵衛は唸った。
 しかし乍ら、今の新発田には全てを焼き尽くして再建するという余裕はなかった。
「珍しく頭の涼しい女子。刀腰婦にしておくには惜しい。太閤の竹中半兵衛か。だが、惜しむらくは彼の女の機転は、江戸の人間の発想よ」
 江戸のように近隣諸国から何万と人民が集まる都市ならよい。
 だが、新発田では領地はあれ、一度焦土と化すれば農民等がこれまで積み上げてきたものを、また一からやり直すには人手が足りない。
 更にもう一つ重要な点を、この女軍師は見落としている。
 冬将軍の到来である。豪雪地帯の北越は、十月半ば頃から雪が降り始めれば、二月三月と雪が残る。一年のおよそ半年近くは農作物も殆ど取れず、普請もままならない。
 焦土にして再起を待つ、というのは温暖な気候に生育したからの思い付きなのだ。
 半兵衛は、議論は終わったと感じた。
 この女なりの好意的な進言なのかもしれないが、他方では尾張による侵略とも取れる。
「内匠どのらには、この事は告げんでおこう」
 結局、新発田は家老・溝口内匠らを使いとして包囲する同盟軍に向け、
「直ちに出兵いたし候、加えて領民を煽動したる首魁を出頭させまする」
 との返事をさせた。今にも突撃せんといきり立っていた米沢の軍勢は、大きく嘆息を洩らしたという。
「如何なる意の長嘆息か」
 半兵衛は思った。だが、一先ずは城下を火の海にすることは免れたのである。
「あの女軍師の思惑が的中せねばよいが」
 庭の朝顔はしとど露に濡れて誇らしげであった。
 この日、老公・静山より、父・半左衛門に御召があった。
 帰宅した半左衛門が言うには、
「国家の安危にかかわる今、やむを得まいが官軍と戦うを覚悟してくれ、そなたを措いて余人に成し得る任ではない」
 と老公に頼み込まれたという。断るべくもない。
 紛れも無い勤皇一筋の溝口家が朝廷に矛を向ける。それは、半兵衛にとっても尋常ならざる葛藤を招いた。だが、こうなる事は初めからわかっていたのである。
「朝廷にはしかじかの事情を記した文を送り、我が藩が同盟をあざむき、勤皇の為にお働きする日が遠からぬこと、飽く迄尽忠の心をお伝えするより他ない」
 半兵衛は筆を運びつつ、頭痛が甦るのを覚えた。雨上がりは特に痛む。
 しばし朝廷宛の書簡の案を練ったものの、如何ともし難くなってきたので、
「膏薬を」
 小姓を呼んで貼らせた。
 じっと身じろぎもせず、庭を見詰めていると、朝顔が目に入る。
 美しいが、何やら毒々しくもあり、不吉に思えた。
「頭痛にございますか。御心労お察し申し上げます」
 刀腰婦の奈彌は、半兵衛が階段の途中、しばしばこめかみを押えるのを見て、そう言った。何やら小馬鹿にされている気がしないでもなかった。
「当方の知己に、滅法よく効く薬を作る定斎屋がおります。頭痛薬をお持ちさせましょう」
 半兵衛は断った。胡散臭い。
 奈彌へ別段、半兵衛の反応に腹も立てずに帰って行ったが、それが却って不気味であった。
「妻には申し訳ないが、どうも朝顔の花は好かぬ」
 膏薬の立ち昇る刺激臭を嗅ぎつつ、半兵衛は思ったのだった。

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