(二) 街道の御庭番
つと松長は馬の速度をはやめた。杉木立の間道は、まだ数日前の驟雨の跡にぬかるみを作っていた。
半里も行かぬ間、別なる足音がつけてくるのに気付いた。
歩調を速めれば、それに付かず離れず。
よもや薩長の使者か、或いは脱走兵の残党か。いずれにしても、蹄の音を響かせてくるには、指揮官並であろう、と松長はついに立ち止まった。
「暫し待て」
隊列に命じて、後方へと馬を回した。
脱走兵であるなら、今こそ河井継之助が如く立ち回るべし、と松長は陣笠の下から騎乗の人を見た。
単騎である。
少しくたびれ老いているが、黒毛の馬は勇壮で美しい。越後の馬だろう、と松長は覚った。
男も陣笠を被っている。身形は洋装ではなく、ぶっ裂き羽織に四布袴
(よのばかま)だった。
「我等は前の新潟奉行御使番の一行ぞ。五月三十日を以って、上杉大弼御預となったゆえ、幕命に従って江戸へ帰任いたす。松長長三郎と申すが、何用か?」
松長は堂々と名乗った。嘘を言ったところで身形や手形を見られれば、瞭然としている。
「それはまことに失礼いたした」
と、笠の内から声が返ってきた。その意外な若さと甘やかさに、松長は驚いた。
だが、若い男は下馬しなかった。些か無礼ではないか、と松長は内心思った。
笠が傾いて、男の顔が朝の陽光に明らかとなる。
「少々道をお訊ねしたかったのだが、貴殿らが向こう先は津川へ通する街道のようらしい。それがしが向こう道と逆じゃったな」
丸きり聞き慣れた旗本言葉。
だが、顔付きは稚児小姓かと見紛う美少年。否、女なのではないか。
「然らば引き返すとしよう。お引止めして申し訳なかった」
男は軽快に言うと、軽く頭を下げて馬の手綱を引いた。踵を返そうとする刹那、松長は言った。
「貴殿の名は?此方が名乗りを申しておるのに、黙して帰るとは無調法に非ざらん」
「成る程」
男は笑んだ。
「西の丸御留守居役下勤向兼御簾中様御用人、別所豊前守伊織佑豪である」
官名を聞いた途端、下馬せねならなくなったのは松長のほうだった。相手は従五位下、白石奉行と同格である。
それ以上に、その名の方が不気味であった。
西の丸留守居の村垣淡路守範正配下ということは、紛うことなくこの人物は御内々探索御用方つまり御庭番衆ではないか。
いまや守るべき主も謹慎恭順した高級密偵など、恐れる必要も無いといえば無い。
だが、かつては下三奉行やはては若年寄らまで神経を尖らせて扱った役向きの人間を目の当たりにすると、一介の官吏である松長も、いい気分はしなかった。
但し、その身分が偽りではければ。
松長の表情を読み取って、伊織は懐から村垣の添状を差し出した。
「失礼致します」と断ってそれを開くと、確かに村垣の直筆と花押が記されていた。
「御無礼いたしました。どうか御容赦を」
膝をつこうとする松長を、伊織は制した。
「付回したそれがしが、悪かったのだ」
伊織は微笑した。花の綻ぶ様な笑みである。
「それよりも松長どの、貴殿が立ち止まったは吉と出るか凶と出るか」
「は?」
「荷駄の筵の下の中身は何とする」
途端、松長の頬から血の気が引いた。荷車に積載しているのが奉行所の書類、物品そして己らの私物である。行李の中には仕着せやら少しばかりの土産、非常用の強飯なども入っている。
その下に見られてはならない物が隠匿してあった。
奉行所から持ち出した公金である。
これは五月三十日、米沢藩への仮引渡しが完了となった夜、田中と松長の二人の裁量で決めた結果である。
「奉行所引渡しはこれで仕舞いだが、我々は一刻も早う公金を江戸へ持ち帰らねばならぬ」
田中は言った。
米沢藩にこれを渡すつもりはない。
公金は公金であって、奥羽越列藩同盟の軍資金にしてはならない。榎本武揚らは大坂城に置き去りの公金を軍艦に乗せてせしめたらしいと聞くが、本来はならないことである。
松長は頭を捻った。
一人が持ち出せる金はせいぜい七、八百両。千両箱を積み上げて行くのも如何にも怪しい。
ただでさえ、餓狼のような輩が街道筋には出没する。なるたけ軽装を心掛け、金は各自分担携行することにした。
「念の為、それがしは残務処理を済ませて発つという名目にて、明後日に新潟を出る」
田中はそう言って、白山神社社主・小林能登の宅へ入り、そこから数名の配下を随えて江戸へ向かうこととなった。
「貴殿の馬の蹄の跡を見られよ」
と、伊織は涼しげな目元を細めて言った。
「貴殿の重みで随分とぬかるみに深く跡がついておる。そうさな、見た目五尺五寸、中肉中背の男子が一人乗ったところで斯様な跡はつくまい。まるで千両箱を抱えているようだが」
「それは……」
松長は言い澱んだ。
田中なら、「鎖帷子を二重に着こんでおるのです」と機転の効いた返答でもしたかもしれないが、この男は不器用だった。
「荷車の轍も然り。銃火器でも運んでいるのかと思った」
そう言われてみれば、車輪の跡は軟泥にくっきりと沈んでいる。台帳や衣類などの重みとしては、不自然過ぎた。
「別所様」
松長は重々しく口を開いた。
「金を棄てるか、それとも狼どもの餌になるかだ」
伊織は嘯くように言った。
松長はまたしても口ごもらざるを得なかった。無論、他の者は何も言えない。
荷駄そして各々の重い足取りから気取るとは、さすがに文官の軟弱なだけの眼力ではない。一癖も二癖もある御庭番衆。相手が悪かった。
果たして、どうしたものかと松長は考え込んだ。
ややあって、「仰る通りです」と答えた。
「確かに、奉行所の公金は東北諸藩から集まったものでありましょう。彼等にとってはそれが道理。返せと言われても、致し方ございません。が、一旦公金となった物は幕府のもの。今後、主家が朝廷に返領するとあらば、直参は生計を失います。然らばその時の助けになろうとする公金を、みすみす置き去りに新潟を離れることは出来なんだのです」
松長は緊張した声をすぼめた。
恐らくこの若い密偵は、公金を撒けば餓えつく脱走兵や諸藩士は松長らを弄るような真似はせず、道中幾許かの安寧を得られるのだと言おうとしているのだろう。
或いは、古屋佐久左衛門らのように脱走兵を取締ると称して、実は募兵と金策に駆けずっている抗戦派の一味ということも考えられる。
いずれにせよ、奉行所の任務として集めた公金を棄てるわけにはいかなかった。
伊織はその若衆のような整った顔を強張らせていたが、松長の言葉を聞き、ふっと形のよい唇を緩めた。
「よくぞ申した、松長どの」
「別所様」
「それでこそ徳川武士。天晴れ己の職掌を貫き通さん心意気、とくと拝見いたした。この儀は、貴殿らに出会わなんだことにする」
見逃してくれたという安堵が、一同に浸潤した。誰からともなくほっと嘆息が洩れる。
「有り難き御取り計らい、まことに痛み入ります」
松長は腰を折った。
「貴殿に公金を無事江戸まで届けられる固き御意志がおありかどうか、問うてみたまでのこと。一つだけ忠告いたす。津川から米沢領に入るには、会津領を迂回して行くと宜しい。承知だろうが、とりわけ会津は殺気立っており、餓狼どももうようよしている」
伊織は念を押した。
「海路、仙台より江戸へ戻られるがよかろう」
既に新政府軍は、下野から会津領へ北上している。磐城、相馬で両軍が衝突するのも時間の問題であった。
松長は「ご注進有難くつかまつります」と、再び腰を折った。
「余り深う御辞儀をいたすな。金の重みで地に膝が付きそうじゃ」
ふふふ、と笑って伊織は黒馬を駆り、去って行った。
松長はその後姿を見送りつつ、
「あの方は、やはり女子ではないだろうか」
と思った。
振り返り様、瞬時ふと甘やかな香を嗅いだような気がしたのだ。
慶応四年六月二日。越後平野の中央は、未曾有の激戦の只中であった。折りしもこの時、長岡藩家老・河井継之助は、要衝今町を奪回、西軍を一時退却させた。
これ以後、戦線は全くの膠着状態に陥る。
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