(三) 新発田の領民蜂起す

 薬売りの行商・茂兵衛(もへえ)が新発田城下を訪った時、街は騒乱の最中にあった。
 それは信州、越後と渡り歩く町々のいずれも似たり寄ったりである。
 北関東が脱走幕軍と西軍とのぶつかり合いに荒れていたふた月ほど前、信州は不気味なほどの静けさを保っていた。
 だがそれも、高田藩に進軍した衝鋒隊の所為でめちゃめちゃになった。
 血相変えたのは、勤皇方の松代藩真田家で、高田からの密使を受けて増援部隊を送った。
 四分五裂となった衝鋒隊は、再び北へ逃れる。
 逃れつつ、兵を再編し、今度は越後小千谷に布陣するという、稀に見るふてぶてしさを発揮するのだから、古屋佐久左衛門という男恐るべし、と誰が言うたか言わなんだか。
「成る程、戦のある所にこそ我城築くべし」
 茂兵衛はそのようにして、衝鋒隊の動きに沿う伏流の如く、転々と行商に歩いた。
 北越に入ったのは、奥羽越列藩同盟に長岡が参入したからである。
 それまで中立を保とうとしていた河井継之助が小千谷談判にて、西軍軍艦・岩村精一郎との交渉決裂に意を決し、同盟参加する。これが北越に空前絶後の戦乱を呼んだ。
 茂兵衛は小千谷、柏崎、与板、寺泊、三根山、新潟と継いで、新発田へ入った。
「万金丹、金瘡の薬はご用あらさりますか」
 商家を訪ねると、
「あんれまァ、薬屋さんけ。何処から来なすった?」
「あては江州栗東より参りました。茂兵衛と申します生薬屋(きぐすりや)でして」
 茂兵衛はぺこりと頭を下げた。
 内儀の顔がまろく緩んだ。
 茂兵衛がその泥臭い名に似合わず、そこそこ男振りが小ましだからであろう。中肉中背の取り立てて特徴ある体躯ではないが、行商人だけあって足腰は強く、日焼けした精悍な肌といい、逞しい腕といい、脂の乗った三十男である。
「江州たあ遠(と)んい所だねし。まぁまんず、上がっておくんなし」
 内儀は店に茂兵衛を招じ入れた。
 近江の栗東六地蔵といえば「和中散本舗」という道中薬を売る店があり、東海道沿いにはそれに並んで多くの薬屋があった。
 近畿では、大和高取とこの江州甲賀地方の生薬が有名である。
 さりとて、甲賀や越中砺波から尾州、三州、信州へ薬を下ろすことはあっても、越後まで足を伸ばすことはない。薬屋には株仲間と縄張りがあって、そう簡単に全国を回るわけにはいかない。
 まず、土地の人は遠方から来たのを労う。そうして、不穏な世情をどうやって渡り歩いたか、隣国の状況はどうなのかと茂兵衛から話を聞きたがるのだった。
 話術も上手い茂兵衛の手管で、何とはなしに「万金丹」が各家に二、三置いていかれることになる。
 中には「ちょいと今、宿六が留守なことだし」と、茂兵衛の手を引く内儀もいた。
 ちゃっかり、そのお相伴に与ることもある。
 が、先立って三根山の或る農家では、折りしも最中に亭主が野良仕事から帰ってきて、鋤を持って追い回された。
 さすがにそれ以後、人妻に色目を使われても、素知らぬ振りを決め込んでいる。
「薬屋が鋤でしたたかに打ち込まれて、手前の膏薬を使ってちゃあ、商売上がったりだ」
 ということである。
 新発田で入った、この商家は醤油問屋であった。
 入るなり、麹や醤油の香ばしい香が強くなった。
 足を洗って店に上がると、小女が茶を淹れてきた。
「ああ、勿体無い」
 覚えず、茂兵衛は声を上げた。
 何処の誰が今迄只の薬屋に煎茶など淹れてくれたか。白湯が出ることも滅多にないというのに。
 薬売りは己が薬を売るだけに、真夏でも笠を被らず闊歩する。ゆえに汗だくで、日焼けして、一日の仕事が終わる頃にはくたくたになるのだ。得意先で気を利かせて水の一杯でも出ると、涙が出そうに有り難い。
 内儀は笑った。
「ええぞなし。ちょっと、城外のお話でもしておくんねし」
「はあ」
 茂兵衛は力なく答えた。
 これは、例の農家のような塩梅になると拙い、と少し気が引けた。些か己を買い被ったものだが、余程三根山での一件が堪えたのだろう。
 さて、内儀の言うよう茂兵衛は道中の話を幾つかした。
 内儀は愛想良くころころと笑い、茶菓子まで出された。が、頃合も頃合。八つ刻に店に入ってから、一刻余りは経っている。
 店主が戻る前に退いたがよかろう、と腰を上げかけた。
「遠慮はいらねし。主(ぬし)は夜半にも戻るか戻らねかわがんねえ。もうちっと、無聊をなぐさめておくれなし。何なら、泊まっていってもよろしいがね」
「いっ、いえそれは」
 茂兵衛は狼狽した。
「ええなし。此処らもまんだ物騒で、男衆が居られるが安心ですよって」
 内儀はきぬと言った。
 店の屋号は浜松屋という。店主はきぬの夫の甚右衛門という。
 三十五の男盛りで、きぬは六つ下なので二十九の年増である。器量は十人並みだが、若く見えた。
 甚右衛門が他出しているには、事情があった。

 新発田藩は越後十万石の城下町を持つ。
 小藩の多いこの地方としては、高田十五万石に継いで二番目の石高。藩主は溝口家である。
 この新発田藩が、仙台を中心とした奥羽越列藩同盟に参加したのは、五月十六日だった。
 だが、この参入は藩論としては不本意な形であった。
 そもそも、京にも藩邸を置き、勤皇色の強い新発田は、前年十二月に朝廷から白川越坂本口の守備を命じられ、出兵に応じた。
 その経緯がありながら、新政府軍かつは朝廷に反抗する同盟に加盟するという、両刃の剣を掴んだのである。
 新発田の勤皇は、特に十代藩主・溝口直諒(なおあき)以来の伝統があった。
 直諒が著した『報国説』は、尊王を志とした書として、ひそかに天子や公卿の間で読まれたともいう。
 藩学・山崎闇斎の崎門学派の陳べる大義名分であり、秘蔵のものだった筈だが、いつしかその内容が藩士らを通じて口伝し、城下にすこぶる勤皇の根を張った。
「勅使様御一行が高田にお越しになられた時、御家老様らもお供なさっただと」
 きぬは、うっとりして言った。
 醤油屋の女房にまで勤皇は行き届いているのらしい、と茂兵衛は舌を巻いた。
「だもんで、会津っぽや米沢や長岡やに囲まれて、仕方なしに同盟に入っただし。余裕もねえで、兵隊は出さね、とお殿様はじめ御家老様も我慢なすっとったがね」
 きぬは憤懣遣るかたなし、といった口調で喋り続けた。
 余程か誰かに鬱憤をぶちまけたかったのだろう。
 五月十九日、長岡が落城した。
 このことは後方に控える同盟軍に、激しく動揺を与えた。
 そんな時、同盟の一員となっておきながら我関せず、と出兵する素振りも見せなかった新発田に、批難が飛んだ。とりわけ怒り心頭なのは、米沢藩だった。
「我々が屍山血河に喘いでいる時も、一兵も出さぬとは如何なる了見か。お手前どもは、ひそかに薩摩の人間を匿っているとも領民は噂しておる」
 とまで、米沢軍監の連中からは厳しく糾弾された。
 実は、それ以前に、堀主計らを中心とした一隊を新潟へ派遣していた。彼等も前線への出動を督促されていたが、さらに新発田錠にも「一刻も早う出兵を」と矢のように督促が来たのである。
「危急に出兵せざりし時は、さもなくば我々の方にも考えがござる」
 御使番にやんわりと恫喝され、ついに新発田も出兵余儀なくされた。
 ところが、隊は前線へではなく、沼垂、新潟という後方警備へと回ってしまった。
 このことが米沢藩の怒りをさらに買った。
 ついに、強行談判によって、次の対策は米沢側から出た。
「一、新発田に出兵させたうえ、督戦部隊をつけて監視し、先鋒を勤めさせる
 二、新発田城を此方で借り受け、同盟諸藩の兵を入城させる
 三、藩主を人質に取る」
 この三つの条件のうち、いずれか一つを選択させ、もしどれも承知しなければ最終手段として新発田を討つ、という苛酷なものである。
「成る程、二股膏薬もたいがにせえよ、いうこっちゃな」
 茂兵衛は思った。
 城内では、連日会議が続いた。
 溝口内匠、溝口半兵衛、堀丈太夫、溝口靱負(ゆげい)の四家老が集まり、協議を重ねる。
 しかし、そうこうしているうち、更なる大事態が起こった。
 
 六月三日、米沢藩主・上杉斉憲(なりのり)が自ら一千余人の軍勢を率いて、越後へ向かったのである。
 斉憲は継嗣の茂憲に、尾張御連枝である美濃高須藩・松平義建の娘・於幸を正室に貰っていた。
 於幸は、桑名藩主で、前京都所司代・松平定敬の同腹姉にあたる。つまり、会津藩主・松平容保らとも姻戚筋に当たるのだった。
 斉憲は、足並み揃わぬ同盟勢の動きを見るに見かねて、
「此度は余が自ら越地へ赴き、指揮を致す」
 轟と言い放ち、越後下関の本陣へ入った。
「さあて、米沢の上杉のお殿様がおん自ら来られたんだなし、手荒(がとう)な話だで」
 と、きぬはまるで我が事のように震え上る。
 六月五日には、上杉斉憲の使者として、軍監・大滝新蔵という男が新発田へやって来た。
「御藩の出兵が遅れておるゆえ、同盟諸藩は大層疑念を抱いておる。そこで、新発田藩侯には、我が侯が御在所下関まで、至急お出で頂きたく」
 藩主に出頭せよ、と言うのだ。
 城内は騒然となった。
 一千余名もの兵が駐屯する本陣へ来い、ということは「人質になれ」というのと同義である。
 重臣達の苦悩は激しかった。
「で。結局、殿様は下関にお向かいになられたんですか?」
 茂兵衛は半分身を乗り出すようにして訊いた。
 よく考えてみれば、醤油屋の女房が何もかも知っている筈はないのだが。
「ああ、確かに行かれたと思いますで。今日がそん日ですけ」
 きぬは言った。
 茂兵衛は、はっとなった。何とはなしに城下が静まり返っていたのは、その所為だったのか。
 陽射しの暑さで、人通りが少ないのかと思えば、そうではなかったのである。

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