(五) 浜松屋の忍者
茂兵衛が再び路地に姿を現した時、事は既に終わっていた。
清水谷まで延々と続いていた群衆の影も形もない。今しも山の端に夕陽がじゅんと音と立てて沈みそうであった。
「お殿様が本陣へ向かうのをやめさせるまで、交替で取り巻くんだと」
浜松屋の暖簾を押し分けて、きぬが出て来た。槍で武装した民衆は、藩の別邸に蟠っているという。
「うちの亭主もその一人だで、今夜は帰
(けえ)ってきやしねえです。どん家もこういう事情だで、宿屋も閉め切っとるすけな。悪いこた言わねえしさ、うちへ泊まったらええすけ」
きぬの言う通りだろう、と茂兵衛は此処に至って実感した。
「よっしゃ、止むを得まい。内儀とは殊更親しげにせんことにすりゃよかろう」
腹を括って浜松屋の厄介になる事にした。
夕餉を頂戴して、風呂の準備がなされた時、きぬが茂兵衛に寝間着を持って、客間に床を拵えた旨を告げに来た。
「広い家ですな。まるで御屋敷だ」
「昔は身代も大きゅうて、名古屋城下に本家がありましての。そん時の家具を持ち出しとりますけ、見てくれは立派。先代もとうに亡うなりましたんで、だだ広うて部屋だけは多いすけ」
きぬはそうして、好きな部屋を使ってくれてよい、と言った。
「但し、奥の離れにだけは近付かんといておくんなさいましな」
「何ですか。開かずの間でも」
「いんや。お客様がおられます。高貴なお方で、本来はうちみだく醤油臭い屋にお泊り頂くのは申し訳ないんですけんど」
「鎮撫使のご関係か何か?」
「尾張家のお方です。お殿様や奥方様の御殿の警備をなさる、刀腰婦という御役目の女性です」
「変わった御役目ですね」
茂兵衛は好奇心に目を輝かせた。
「諸々のご事情で、ご滞在です。奈彌様と言われますが、くれぐれもお近付きにならんでくんなさい」
きぬはしつこく注意して、去って行った。
茂兵衛は俄然興味をそそられた。尾張家の刀腰婦というのにも然り、女の名が奈彌というのにも心動かされるものがあった。
「行くなと言われると、却って禁を破りたくなるのが人情ではなかろうか」
そうして、きぬや小女らが寝静まった頃、茂兵衛は寝床を這い出した。
客間を出て、板敷きの廊下をしたしたと歩いた。
だが、茂兵衛の足は猫のように忍びやかに音も無く進む。渡り廊下などないので、一旦は草履を履いて離れへ赴くのが通常の行き方だが、この男は違った。
母屋の端まで行くと、するすると柱にしがみ付いて登り、樋から屋根へ上がる。
恐るべき猿猴のような身の軽さである。そのまま屋根伝いに母屋から離れへと、一気に飛び移った。
これも微かに衣擦れの音がする程度の軽やかさであった。
闇を逆巻くように庇から頭を逆さに垂れ、ゆっくりと身体を折り曲げて離れの一室を覗き込んだ。
何れも闇の中。遠く虫の音がりんりんと響いている。
やがて、茂兵衛は納戸に潜り込み、天井板を外して梁の上に攀じ登った。
豪雪地帯のこの辺りの家屋の梁は、極めて太い。
「ここだ、この下だな」
華灯窓の部屋から、人の気配がする。
天井板の下から、咽び泣くようなあえかな声がした。だが、羽目板はみっちりと詰まって、下を窺う事はかなわぬ。仕様が無いので、両脚で梁を抱き、腕を伸ばしてそっと板をずらした。
刹那、茂兵衛はぎょっとなった。
女の白い太腿が視界に入ったのである。
暑さで寝乱れたかと思ったが、そうではない。障子は微かに梳かしてあって、夜風を誘い込んでいる。
その故に、天井下の明るさを、茂兵衛は感じられた。
「……はあ」
甘く濡れた低い吐息に、茂兵衛は耳を欹てた。
女はむっちりと健やかな腿の間に己の手を入れ、微妙に動かしていた。夜目にも鮮やかな雪肌と、それと対照的に黒々とした陰毛に彼は目が釘付けになった。
「これはいかん。こんな処で女子の自慰
(あてくじり)に出会うとは」
すっかり覗き見の体となってしまった茂兵衛は、両手指を組んで結印した。色欲を祓うといわれる中台八葉印
(ちゅうだいはちよういん)である。
しかし、茂兵衛の股間は忽ち高々と勃
(お)えてきた。
女は大柄で伸びやかな肢体を存分に広げて、己の喜悦を貪っていた。浴衣の合せ目が開いて、形のよい乳房が露わになる。
敷布を波立たせて腰が屈伸し、足の爪先が立つ。まるで、姿のない仇し男
(あだしお)に乗り掛かられているのではないかと思えた。
茂兵衛は気を嗅いだ。女の夜具の枕元に置かれている一通の書状らしき紙から、常人では嗅ぎ取るにも困難する稀薄な香木の匂いを。
「白檀の香ぞな」
そんじょそこらの成り上がり者が身に付けるような香ではなかった。唐渡りの物とみた。
やはり、尾張家中の者が持つに相応しい高貴で艶なる焚香のようだ。
「……わからん。この女子、誰ぞ」
それにつけても耐え難い。茂兵衛の股間は痛い程に疼いていた。結印どころではなく、梁に擦れて激烈に痛いのである。
天井板をぶち抜いて、女に飛び掛りたいという我欲を圧することで精一杯であった。
「もう、だめ」
女は切なげに喘いだ。気を遣るのだろう。
茂兵衛は刮目した。どうであてくじりで無聊を慰めるのなら、己が鎮めてやってもよかろう、と考えた。
その時、女がはっきりと声にした。
「下りておいで、天井裏のねずみ」
甘い呻きとは打って変わって冷ややかな一声だった。茂兵衛は落ちた。
羽目板を一枚外したその隙から、茂兵衛は音も無く畳の上に足を着いた。縁を踏まぬように膝を浮かした、見事な着地だった。
「只で覗き見とは捨ておけん」
女は言った。茂兵衛の目前には白く光る一筋の光があった。女はあっという間に大刀を抜いていたようである。太腿は立て膝の姿勢を取っている為に曝け出されていたが、既に胸元は閉じられていた。若衆風にだらりと結った黒髪が濡れ濡れと垂れている。
「やはり」
茂兵衛は我知らず呟いていた。この女、奈彌ではない。
「おぬし、きぬが言うておった定斎屋
(じょうざいや)だの」
是斎屋ともいう。和中散を売り歩く薬屋のことを指すが、広く薬売りをそうとも呼んだ。
女の双眸は涼しげだが、何処か無意識に男心を弄うようなところがあった。端的に言えば好色、而して何事にも屈しない我の強さとも感じられる。
「奈彌様の目は違う」
容貌も全くの別人だ。茂兵衛の記憶にある奈彌は、一重瞼の清々しい、横顔が滑らかな月の様な女だ。
目の前の女は声も低いし、目鼻がくっきりとし過ぎていた。
「つまり、甲賀者ということか」
女は炯々と光る黒瞳で茂兵衛を見た。女の匂いがむっと濃密に立ち昇る。
「ばれているなら止むを得まい。だが、そなた様は奈彌様ではない」
茂兵衛と同時に女の声が発せられた。
「奈彌どのを御存知かえ」
女の方が先に、にやりと唇を歪めた。
甲賀の薬売りというと、仏道修行に励む僧が作った"神教はら薬"を売ったり、朝隈坊という人物が広めた"万金丹"を売るものだが、武士の世界では"甲賀忍"を指した。
忍の巨頭といえば伊賀、甲賀。
伊賀上野服部郷の上士、服部半蔵正成が徳川家に仕え、伊賀組同心を組織して二百数十年。
伊賀同心はすっかり戦国の世の術を忘れてしまったが、連綿と隠密の世界ではその名が生きている。
紀州家吉宗より御抱えとなった御庭番衆の多くは、伊賀者と呼ばれた。
服部半蔵家は、二代の実弟から桑名藩久松松平家に家老として仕官し、また遡及すれば音羽ノ城戸
(おとわのきど)という織田信長を付狙った伊賀者も、これものち桑名藩に仕えている。
伊賀者を抱うのは、宗家に近いことの象徴でもあった。
対して甲賀はといえば、尾張家の御土居組がこれに当たる。
御三家筆頭として、宗家に牽制をかける立場の尾州が甲賀衆を用いれば、反目しあうのは当然。それは尾張宗春の時代から、より顕著になったといえよう。
「御土居組の者か。名を名乗れ。確かに私は奈彌ではない。女子の秘所
(かくしどころ)を存分に覗き見しておいて、名乗らぬではその股倉の物もさぞ駄物だろう」
言わせておけば、と茂兵衛は思った。漸う股間の痛みは遠退いてきた。
「三ケ日又市。またの名を火打の又市」
「変わった名だのう」
「火薬を扱うを得手としておりますゆえ」
白刃の上に落ちる外の光が軟体動物のように女の頬を冷たく照らした。
又市は視線を女の凛々しい顔と、肉付きのよい引き締まった腿の付け根の間で彷徨わせていた。
鍛え上げた下半身は、長年乗馬の経験がある者ではないかと思えた。すると、伊賀者のような下忍ではない。
「まさか、そなた様……」
「察する如くだろう。私は西の丸御留守居・村垣淡路守勤向、別所伊織と申す」
村垣淡路守と聞けば、他に何を言われようが、女の身分は知れた。
にっと笑んだ女の皓い歯に、又市は一瞬、己の陽物を喰いちぎられでもする様な幻惑を覚えた。
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