(六) 尾張御土居衆

 又市には姓がない。
 三ケ日というのも養子先の名字で、実際の生まれは甲賀郡信楽に近い貧農だという。
 本人が其処に居た記憶のあるのは十歳くらいまでで、黒船が浦賀沖に出現したという噂を聞いた時分は、もう名古屋城下に居た。
 甲賀百姓の習いとして大津や京に奉公に出る、ということもなく只口減らしの為に又市は尾州御土居組の三ケ日家へ貰われた。
 又市にはどうやら、他の兄弟にない素質があったようである。
 幼児からの薬草摘みとその知識の豊富さ、大勢の子供の中の真ん中に生まれた事で得た、他人の様相を素早く掴み取るはしこさ、体躯の俊敏さ。
 回天の時代、動乱の世を渡るに相応しい機転に恵まれ、又市は御土居組の一員となった。
 養父の代わりに晴れて尾張大納言に仕えることになったのは、十九歳の事だった。
 爾来十年。
 表向きは番勤めの一員。その実尾張家の密偵として、勤めてきた。
 そんな或る日。
「又市」
 呼ぶ声がした。御土居組長屋に戻ろうとした時のことだった。櫓下の橡林(くぬぎばやし)の中から、女の声がする。無視しようと思ったが、またしても「又市」と呼び掛けるので、近寄った。白い影が又市の両腕を掴んで藪の中へ引き摺り込んだ。
 化生の者の手のような手管で又市を抱き止めたのは、刀腰婦の於香(おきょう)という女だった。
「抱いてくりゃれ」
 於香の声は切なげだったが、むしろがっしりと抱き締めているのは又市ではなくて於香ではないか。
「何を於香様」
「白々しいぞ、又市。そなたは奥向に御前様や御家老様に御目見えの度に、妾に秋波をくれておったではないか。今更恥ずかしがるではない」
 違う、と迸りかけた絶叫を、於香の唇が塞いだ。刀腰婦だけに又市と遜色のない背丈、膂力に圧倒され、あれよという間に袴まで脱がされてしまった。
「よい男じゃ」
 於香はうっとりと言って、橡に凭れ掛かると、又市を引き寄せて腿を開いた。
 有無を言わせぬ激しい野合だが、悲しい哉、そんな時でも又市は股間を熱く嘶かせてしまった。
 殊に於香には、名状し難い淫らな魅力があったといってよかろう。
 噂に聞くにはこの刀腰婦、城内で関係したことがあるという者は、十指に余るほどあるとかないとか。
 男ばかりではない。むしろ、女ばかりの奥御殿の世界、奥勤めの女中や刀腰婦同士でつるむことは、ある種当然の成り行きとして誰もに認められていた。
 百戦錬磨の於香に絡め取られた又市は、漸う三度目の吐精で女体を突き放すことが出来た。
「見廻りの者に見咎められたら如何いたします」
 又市が下帯を締めなおしつつ、小声で言った。
 すると、於香は紅唇を三日月の形にした。
「我等に文句の一つも言える様な尾張武士なぞ、この城じゃあおるまいて」
 ふっと笑う。
 刀腰婦の権限もとまれ、近頃の藩士の精細のなさを揶揄しているのだ。
 温厚な慶勝公はさておき、尾州侍はやる気がない。昨今の何れの家中も同じ事で、勤皇方佐幕方と派閥争いに耽り、肝心の事がおざなりだと於香は言いたいのか。
「それを言うなら尾張はどっちつかずの二股膏薬。御前様は渋々ながら、長州征伐総督をお受けになり、宗家への義理は果たされたが、家中では勤皇派の勢いは増すばかり。水戸の二の舞だけは勘弁して欲しい」
 又市は格別勤皇でも佐幕でもない。
 元が百姓、今も士分とは公然と言えない下忍ゆえ、思想などない。敢えて持たぬようにしている。
 佐幕派の言うことは、現実を見ていないようにも思えるし、勤皇派の言うことも今まで禄を食んできた御家に唾を吐くようで、どっちもどっちだ。
「民百姓にゃ関係ねえや。丸く収まればいい。腹一杯飯が食えるに越した事はない」
 白い飯が食える、と喜んで養子に来た又市である。
 於香はげんなりした又市の顔を見据えながら、言った。
「わかっておる。そなたの好いとうるは、奈彌どのじゃろう」
 又市は袴を膝まで上げたところで、於香の双眸を見た。
 於香は何もかも知りぬいたというような顔つきで、又市を圧倒していた。
 奈彌という刀腰婦は、於香の朋輩にあたる。一重目の涼やかな流線のみで造形された美女だ。丈は高いが、於香よりも一回りは華奢で色白い。その体躯の何処から、男を凌駕する程の剣技を繰り出すのかと思えた。
 奈彌の事を思い浮かべると、柄にも無く鼻先に沈丁花の香が漂うような陶酔に陥る。
 奥向で奈彌と出会ったのも、沈丁花の香る如月の終わりの頃だった。
「無駄じゃ」
 又市の心を見透かしたかのように、於香は言った。
「奈彌どのは男子を好かぬ。まいて、そなたの様な出処も得体も何とも知られん下忍など、相手にする筈もあるまいて」
 そうなのだ。又市は奈彌とは口をきいた事がない。焦がれる視線を、刀腰婦は一顧だにしない。下士の娘から刀腰婦として仕えたとはいえ、士分とも呼べない御土居組の密偵とは月とすっぽんの隔たりがあった。
「なれど」
 と、又市は於香を睨んだ。
 於香こそ上士の娘であり、刀腰婦の筆頭にありながら、幾人もの男女と関係している。他人の事を言えた義理か。
「妾はそなたが気に入った。時々こうして、抱いてやる」
 於香は嫣然として首を傾げた。
 こうなったら、堪ったものではない。於香は時折、櫓下に又市を誘い込みもすれば、長屋まで忍んで来ることもあった。一度の接合では済まない。荒淫な女である。又市の精を絞りつくしてしまうのではないかと、屡本気で戦慄させられたこともあった。
 或る日、事が終わってから、
「妾もそろそろ二十四。世間では嫁き遅れじゃがの。御役目を退いて、今度は一人の男子にお仕えいたそうかの、と思う」
 又市には、最初何の事やら意味が判らなかった。
「所帯を持とうという意味じゃがの」
 と、於香は少し恨めしげに言った。又市は己の前で、そんな事を言い出す於香の真意が判らない。
「御前様は格別に誰某と上士の家を世話して下さると仰せだが、妾はお断りいたした」
「そ、それは」
「三ケ日又市。そなたに嫁ぎたいと、申し上げたのじゃ」
 恐れていた答えが、於香のぽってりとした唇から出た。
「それはならぬ、と初めは仰せになられたが、再三お願い申し上げて涙を流したれば、御寛大な御前様はよかろう、と一言」
 それ以上は聞きたくない。
 御土居組の者のうち、士分の人間は妻帯もしていたが、下忍の又市は独身であった。町衆に紛れて城下の女を購うてもお咎めはない。妻を持てば、御役目に怠りが生じるのを危惧し、或いは秘密が漏れるのを防ぐ為に組頭らは下忍には妻帯をすすめなんだのである。
 於香の実家は三百石扶持、普請奉行勤向の家柄である。もし仮に於香を娶れば、三ケ日家は家格の違いに翻弄されることになる。武士の倣いは、一段格下の家から嫁を娶れということなれば、末は火を見るより明らかだろう。
 あの、白いどっしりとした尻に身も心も敷かれ、干物の如くなっていく己が又市には見えた。
 そして、地獄の針の筵に座らされた日々が始まった。
「まだおれは、諾とは言うておらん」
 と、心の中で叫んでみても、無駄だった。
 於香は他人に吹聴こそせなんだが、すっかり又市の女房気取りである。
 その日も又市の下城を待ち侘びて、櫓の下で於香が手招きした。
 又市はこのところの激務に憔悴していた。半勃えの陽根を弄いながら、於香はじりじりと怒りを滲ませた。
「そなた、これは如何なることじゃ。先日も半勃えであったが、如何した。まさか心変わりしたのではあるまいな?」
 心変わりも何も、又市は於香を好いてまぐわっているのではない。行きがかり上、拒絶出来なかっただけである。答えない又市に、於香はますます憤った。
「奈彌どののことかえ?そなたは、まだ奈彌どのに懸想しておるのかえ」
 それもまた否定出来なかった。依然として奈彌とは何の接点もなく、遠くから眺めるばかりだが、その行為すら近頃は叶わない。於香が予防線を張って、奈彌に又市との事を告げてあるのだろう。
 奈彌は時折見掛けても、又市が其処に居るとわかると、ぷいといなくなる。嫌悪を示しているようでさえあった。
「無駄じゃと申したのに、ええい口惜しや」
 於香はぎっと又市を睨み据えるや、袴も着けぬ、はだけた単衣のまま、城内へ駆け戻って行った。
 束縛から解放されたという悦びに、又市は暫し呆然となっていたが、やがてあっと頭を殴られたような衝撃に襲われた。
「奈彌様が危ない」
 悋気に駆られた於香のことゆえ、何をしでかすかわからない。
 又市は慌てて着衣し、藪の中から飛び出した。
 そののち、半刻も経たないうちに、尾張名古屋城の奥御殿で、惨劇が起こったのは言及するべくもない。

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