(八) 御庭番越地に来りて

 越後領に入って、人民の変化に気付くのには、そう時間を要しなかった。
「会津はやはり越地の民に嫌われているらしい」
 伊織は感じた。越後水原を視察した時以上に、北越ではそう思えた。
 信濃川に沿うようにして、長岡藩領を抜けるのに、最も労苦を要した。
 此処が北越における戦線の激地である。迂回することも可能だったが、こういう状況下では却って僻地を行く方が、はぐれた脱走兵や新政府軍別働隊の標的となる。
 どさくさに紛れるに如かず。
「出来得れば、長岡の河井継之助に会ってみたい」
 とも考えた。
「河井どのは、中将様にもお会いになっている筈」
 河井継之助は、江戸から藩領へ帰還する際、手配したプロシア船に松平定敬と桑名藩士らを便乗させている。定敬らが新潟港へ着くまでの間に、何らかの話し合いがあっただろう。
 それを知ったところで、どうということもない。定敬が謹慎生活を打っ遣って、戦い抜くという姿勢を表出した今となっては。
 だが、河井はほんの短い時間であったが、面会を承諾してくれた。
 最早、幕府とは一線を画した河井が伊織に会う理由など、毛ほどもなかったのだが。
「なに、久方振りに江戸の女子に会うてみたかったまでよ」
 河井は悪びれもせず言った。
「成る程、めんこいお方じゃの。江戸の水でお磨きになった割りには色白で。村垣どのの鬼瓦の如きお面の下で働いておるとは思えぬ」
 世辞も抜かりない。伊織は此方も言われ慣れている。が、肌の色白を褒めるところは流石に海千山千の男、と思った。
「まずは御礼申し上げます。新潟より衝鋒隊及び水戸脱走兵らを駆逐して頂いた旨、勝安房守に代わって篤謝いたします」
「その様な事、他愛もござらぬよ、別所どの」
「しかし、この伊織しくじり続きにございます」
 上州で小栗上野介忠順を新政府軍の刃から守る事が出来ず、恰もそら見たことかと言わんばかりに軍事奉行の勝海舟から返書が飛んで来た。
 日光街道に差し掛かった頃であった。戦線は北関東を往来しており、ややあって上野の御山に立て篭もった彰義隊が一日にして敵兵のアームストロング砲に敗れ去ったと聞く。
 勝の指示書は、
「別所豊前守、西の丸勤向を申し付く」
 の一文だった。西の丸とは将軍を引退した大御所や若君の館である、柳営とは直接関係のない部署を意味する。つまり、村垣の指示に従って何処へなと行け、という事である。
 その御庭番宰領である村垣淡路守範正の指示に拠ると、
「勝安房が関東信越の脱走兵を招集する際、古屋佐久左衛門に命じたゆえ、それに従え。古屋は信州を諦め、北越に向かった」
 とあった。
 この時既に、古屋の率いる脱走兵は信州を目指して敗走、会津に一旦保護されて「衝鋒隊」を名乗り、新潟から南下していた。
 要衝の新潟で乱暴狼藉の限りを尽くしている間に、奥羽越列藩同盟が発足し、その後暫くして柏崎に謹慎中だった松平定敬が戦意を表明した。
「そのことと古屋の迷走するが如く進軍は、無関係とは思えない」
 伊織は思った。恐らく、古屋は勝が彼等に好きにせよと言うたのを忠実に顕しているのに違いなかった。
「安房守も人が悪い」
 勝は己が江戸に居て、幕府の後始末を付けなければならないのをよい事に、手下に関東鎮撫させると見せかけて暴れさせている。見てみぬ振りとも厄介払いとも言えるが、もしその下の本音を聞く事が出来るなら、
「なに言ってやんでえ。暴れたい奴らを無理に押し込めとく方が、こちとらの後味が悪いってものだ。派手にやればいいや」
 とでも言うだろうか。どうがこうでも脱走兵を鎮撫すべし、と言うなら古屋や大鳥圭介らを野放しにはすまい。
「その安房守に勝手にせよと言われた以上は、今更江戸に戻る気もしないが、村垣様の御意向は果たさねばなるまい」
 伊織は考えた。古屋は新潟を撹乱して現実を見せ付け、東北各藩の動向を危機的状況の回避に導き、かつ決起を促したに相違ない。
 白河楽翁・定信公以来、徳川親藩に連なり卓越した軍事力を擁する桑名藩を抱き込めば、旧幕方勢力も増すのである。
 伊織は、ふと思い出すことがあった。
「確か、桑名藩には白河公の時分に対外軍備を蓄えた武器があったと聞いたが。よもや、百年も昔の物が使えるとは思えない」
 清国の火薬飛器のようなものであるという。実際に見た事は無い。
 その存在さえも、公にされているとは思えない。
 伊織が知っているのは、村垣が何かの拍子に語った事だけである。
 桑名城の櫓にそれが眠っているとすれば、既に東海道鎮撫軍の焼討に遭い、消失している筈だ。
「その飛弾は、外国船を打ち払わんが為に考案された。白河公は、然るべき処に配備なさろうと考案されたらしいが」
 実現はしなかった。海岸沿いに台場を設置するというつもりだったのだろう。今となっては、それが何処かもわからない。
 が、よしんば見付かったとしても、やはりアームストロング砲などの最新兵器の前には無力の体を晒すだけなのかも知れない。
「まさか、古屋は桑名のその秘密武器を狙っていたとか」
 と、伊織は考えて頭を振った。
 村垣の言う飛弾が存在していれば、真っ先に松平定敬が知っている筈ではないのか。
「どうだろう」
 伊織は定敬の引き締まった中高の面差しを浮かべた。
 思い出せば自ら変成男子(へんじょうだんし)となって働く己の立場を忘れてしまいそうなので、なるたけ定敬の影は頭の中から払い去ることにしていた。
 深川霊巌寺で、たったひと月ばかり、勝の密偵という身分を隠して定敬に冷泉流御歌の指南をしたあの日々だけが、四年余の殺伐とした幕吏生活の中で唯一潤いを帯びていたように思えた。
 定敬が柏崎に向けて江戸を離れるまで。
 初めて触れた定敬の指先の熱さを、頤(おとがい)に思い出した。
 抱かれてしまえばよかったものを、とあとあと思ってみたりもしたが、背負う物こそあれ、とお互いに敬して峻拒した記憶が残る。
 無聊をかこつ夜は、定敬が「琉璃」宛てに寄越した恋歌の懐紙から漂う、微かな白檀香さえ憎らしい。
「だが結局、私も此処まで来てしまった」
 定敬の御在所からそう遠くない場所に居ることに、複雑な気分になる。
 御役目大事、御家の為と言いながら、恋しい男を追っているような一種の疚しさを感じる。
 ゆえに、敢えて江戸城開城後は上州に単身向かい、旧幕府軍とは接触を持つ気はなかった。
 それが今回の北越行きとは、上役の村垣も勝も、嫌がらせではないかと思える御役目を与えてくれたものだ。
 だが、個人的な感傷はさておいて、古屋の狙いが幕軍再起だとすると、黙って他所をうろつくわけにも行くまい、と腹を括って越地に入境したのだった。
「私の上様は後にも先にも昭徳院様只御一人のみ。然れども、慶喜公御謹慎に障りがあるような動向を旧幕府軍が為すなら、それは幕臣としては捨て置けん」
 やはり己は女でありながら、女を捨てた畸形児なのだ、と伊織は自嘲気味に己を哂うしかなかった。
「――古屋どのは、思惑あって各地を撹乱しておる。さながら、この日本を戦国の世に呼び戻さんばかりにな」
 河井は厚めの唇を歪めて笑った。
 皆がみな、それに踊らされたわけではあるまいが、長岡も桑名も、越地各藩もすっかり戦の渦中にあるのは、古屋の術中に嵌ったに似ていた。
「で、河井どのは新潟で古屋どのと面会された折、何かお気付きになられた事は?」
「さて。桑名中将様に今一度、お奮い起ち頂く事が出来れば、此の地での目的は一つ果たした事になる、とは言うておったが。最早それも成し遂げた今では、どうでしょうな」
「桑名藩が貴殿の周旋したプロシア船に同行するにあたって、何か不審な物を持ち込んだとか、不審な人物がいたとかは?」
「商人のスネルに命じて、桑藩には武器を都合してしんぜたが、それ以外にはなかったと思う。百人に近い藩士が乗り込んだので、何とも言いかねるが、旧幕軍関係者はいなかった。それが、衝鋒隊と何か関係が?」
「いえ」
 河井も何やらもう一つ腑に落ちない、という感慨は持っているらしい。
 だが、それが何を意味するのかは、伊織も訊き出せなかった。面会の時間は限られていたからである。
 重要拠点、今町奪回の攻防をかけて、河井は古屋の行き先どころではなかった。
 その上、伊織が当地に入って感じたように、北越は会津に反目し、米沢に心を傾けていた。
 戦災の被害を受けた民衆を救う為に、米沢軍は炊き出しを行ったり、慰労に回っている。
 この行為が、河井らにとっては面白くない。
「もしや、米沢はこの戦いで勝利を収めた後、民衆を抱き込んで越後の全土を併呑するやもしれぬ。元が上杉家の旧領だけにゆめゆめ油断ならぬ」
 と、疑念を抱かせるものがあった。
 かといって、河井自身会津にもよい心象は持っていない。御家門の大国主義な押し出しの強さがある会津には、長岡や新発田のような中規模の藩では抵抗し難い圧力がある。
 それは米沢にも同じことが言えた。小藩は知恵を切り回して彼等と上手く渡り、西軍と戦わねばならないという二重苦を背負っている。
「この戦は、誰が勝利を得ようとも不毛だ。そもそも戦そのものが不毛といえばそうだが」
 だのに、誰も引き返すことが出来ない。
 伊織は己が単身乗り込んだゆえに、何れもの状況を見るや、遣る瀬無い心地になるのだった。

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