(九) 新発田城下包囲さる

「して又市。おぬしは何ゆえ桑名隊のいる加茂へは行かずに新発田へ?」
 伊織は振り返った。 
 袴の股立を高く取り、襷掛けをして足は裸足である。柔らかい庭土を踏み拉く。踝(くるぶし)の小さい出っ張りや足首の白さが際立っていた。
 「流石の腕前だ」と、又市は濡れ縁から眩しそうにその真剣稽古を見ているのだった。
 既に夜は明けていた。
 六月八日である。
 又市は己の正体を伊織に明かした後、寝間へ戻って朝には素知らぬ顔で、きぬの前に姿を見せた。
 きぬは愛想良く笑って、「お早うございます、又市様」と言った。
 これには又市も吃驚したが、何の事はない、伊織がきぬに告げていたのである。
「御土居衆のおぬしだからこそ格別に言う。浜松屋は醤油問屋なれど、幕府公儀隠密の陰宿(かげやど)である」
 伊織は、又市に説明した。
 御土居組の下忍にも、同じ様な仕組みがあって、理解するのは容易だった。
 諜報活動には拠点が必要である。常宿として、隠密らの情報を他言したり、活動を妨げるような処に宿泊してはまずいというので、各地に配置されたのが浜松屋のような陰宿であった。
「勤皇の国新発田にあって、甚右衛門ときぬは労苦を強いられておろうが、幕府がすっかり瓦解の様相を呈した今も、ようやってくれる」
 伊織の労いの言葉に、きぬは「いんえ、いんえ」と謙遜した。
「うちが今迄六代もこうしてこられたのは、御公儀の御蔭ですけれ、ちっとはお役に立てれば、と」
 陰宿の主人夫婦のみがその役目を負い、代々受け継いでいた。使用人は知らない。
 いわば、陰宿も一種の隠密と言えた。
 それにしても、新政府軍に与する尾張の手先にばらしてしまってよいのだろうか。些か心配になったのは、告げられた又市のほうだった。
「ふん。おぬしと私は立場は違えど、同じ穴の貉。目的はそう遠くない」
 伊織は、皓歯を輝かせて答えた。成る程、伊織も幕府方の動向に目を光らせているということかと又市は理解した。
 その言葉を念頭に置きつつ、又市は素振りを続ける伊織に言った。
「桑名侯は、戦線の北上につれて柏崎、加茂と御在所を移され、次なるは会津領に他ありません」
「村松、水原ではないな」
「水運の要衝は津川にございますれば」
 阿賀野川の中流にあって、越後と会津本領の中間にある津川は、古えから交通の要所であった。
 むしろ、物資の運輸こそ陸路ではなく川が絶対である。川を通じて会津は塩や日本海の魚を得る。会津は飛び領として、津川を押えていた。
 西軍が狙う陣地は、こうした交通の要衝。新潟、長岡、柏崎、津川、そして新発田。
 同盟軍にとっても同じである。
 南から磐城平、二本松と攻め上がり、西から津川を破れば西軍は会津に王手を掛ける一歩手前までゆく。とにかく、津川は押えておかねばならず、そして今のところ桑名軍の移動先としては、安心出来た。
「しかし、同盟藩でありながら動向の怪しい新発田が何をしでかすやらわからん、と方々で噂を聞きましたので、先に此方へ入ったのでして」
 又市の言葉に、伊織も動きを止めて頷いた。もし仮に、新発田が西軍に寝返りなどすれば、忽ち越地からの物資供給は途絶え、米沢も会津も干上がってしまう。
「会津へとなると」
 いよいよ戦局は大詰め。この一、二か月が山場だろう。
 丁度、新発田藩主・溝口直正の呼出と時を同じくして、十二潟村などの八丁沖戦線では、同盟軍が進撃。長岡軍は栃尾を新政府軍の撤退によって取り返したが、依然として占拠されたままの長岡を奪回すべく、森立峠(もったてとうげ)へ向かう。
 この長岡軍の中に、古屋率いる衝鋒隊の姿もあった。
 しかし、奇襲作戦は失敗に終わった。血気にはやった長岡軍が先に発砲を開始した為、新政府軍に察知されてしまった。新政府軍に援軍が合流し、スナイドル銃の猛射撃を受け、同盟軍は撤退せざるを得なくなった。
 そんな中、領民蜂起という手を使って藩主の出頭を回避した新発田に、不穏の影が黒く覆い被さってきたのである。

 八日夜半から、篠突く雨が降出した。
「どうやら城下は、同盟軍に取り巻かれているようですな」
 又市は笠を取りながら、伊織に報告した。
 彼は薬箱を担いで城下を回った。だが、薬を購う者は殆どなかった。それどころか、どの家も逃げ仕度。
 土砂降りの雨の中を、大八車に荷を上げ下ろしする者や、赤子や道具を背負った女、老人が行き交う。
 城門から出て来る藩士らも、それぞれ攻撃あらば応戦せん、と各部署に散らばって行った。
「莫迦な事を」
 伊織は立ち上がった。袴を着け、ぶっ裂き羽織を被る。
「何処へお行きになられる」
 又市は訊いた。
「城へ参る」
 と、伊織は短く答えた。
「直ぐにも同盟軍に応じよ、と仰せられるか」
 伊織は答えなかった。又市はぐっしょり濡れた雨具を着けたまま、伊織を見上げた。
「ご介入なさるのは如何なものかと。貴方様は、幕府のお立場ではありませんか」
 そして、その幕府は東北諸藩、脱走兵の動きは一切見て見ぬ振りを決め込んでいる。飽く迄、前将軍・徳川慶喜の新政府軍への恭順に従っているのだ。
「だが、立場はどうあれ、みすみす新発田城を焼討させてよいとは思えん」
「では、何か秘策が?」
 そうでなければ、この強かな女が無闇に動くまい、と又市は思った。
「秘策などない」
 伊織は開き直ったかのように、言った。「ともかく、おぬしその気があるならついて参れ」とばかりに、馬に跨った。
 又市は気圧されて、付いて行くことにした。
「何を考えておるのだろう、この女」
 俄かに馬丁の扮装をして轡を取る又市は、ふと馬の鼻息を首筋に感じながら考えた。
 この女は水も滴る御小姓のような化けっぷりであるのに、居丈高でそれこそ下忍の又市を使うことすら何とも思っていない。
「すっかり主従になっちまってる」
 だが、育ちの良さから出る我儘な正義感は、又市には無縁ものだが、厭味がなかった。
 何しろ、あてくじりを見られても何の衒いもないのが理解し難いが、身分の違いとはこういうものなのだろう。
 又市の方は、伊織の健やかな白い手足や項を見るだけで、年にも似合わずどぎまぎして気恥ずかしくなるのだが。
 或いは、刀腰婦の於香や奈彌の様な女ばかりの世界に居る者とは精神構造が異なるのではないか、と感じられた。
 不思議と、伊織に命じられるのも従うのも苦としない己に、又市は「おれは根っからの雇われ下忍か」という卑屈さも覚えなかった。
 雨中を急ぎ、新発田城へ入る。門番に咎められはしまいかと危惧したが、伊織が笠の下から、
「尾州侯の御使番である」
 と言うと、あっさりと通してくれた。幕吏を名乗ると、こうはいかないだろう。
 又市は下足番の手前で止められてしまった。仕方なく、馬を厩舎に入れ、供侍の間で待つことになる。
 伊織は全く以って慣れた様相だった。蓑笠を預け、大股に御殿に入って行く姿は流石に将軍御目見えだけのことはある、と又市はぼんやりと思ったのだった。
 新発田城を包囲した同盟軍の総攻撃が始まるまで、一刻を切っていた。
 又市がその事を知らされたのは、下足番からであった。
「ほんとは全軍を率いとられる佐治様から領民撤退の合図が鳴るのは遅くて今頃だけんどよ、鐘はゆんべのうちに鳴らされての」
 下足番は苦々しく言った。
 明け方近くに鳴り響いた撞鐘の声で、城下の者は逃げ仕度を始めた。
 それで土砂降りの中を、朝っぱらから荷駄を積んだ車が往来していたのである。
「妙な時間に鐘が鳴ると思うたが、うっかり聞き逃したな」
 又市は己の迂闊さを呪った。だが、浜松屋のきぬも伊織も超然としていたので、気付かなんだといってよいだろう。
 既に九日の午(ひる)である。包囲軍に返令が走ったはどうかはわからないが、本陣が動き出すのもそう遅くはなかろう。
 だが、午を半刻ばかり過ぎても、攻撃はなかった。雨が小降りになるのを待つでもあるまい。
 やがて、御殿から伊織が出て来た。
「御首尾は如何?」
 草履を履き直す伊織は、むっつりとしたまま直ぐに返答しなかった。
 黒馬に跨ってから、漸くぽつんと言葉を零した。
「包囲軍の攻撃は無い。安心せよ」
 又市に向けてだったのか、逃げ惑う城下の人々に向かって呟いたのかは知れない。
 伊織は雨滴のしたたる笠を傾けて、城門を振り返った。
「だが、あ奴らの行ったは下策も下策」
 又市の耳には、その声が殷々と谺(こだま)した。
「帰るぞ、又市」
 今やすっかり主従になりきってしまった伊織と又市が驟雨の中、ゆったりと城下町へ向けて踵を返した。

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