(三) 

「一寸ええとこに来やはったわ、斎藤はん」
 化粧を半分までで二階の桟から身を乗り出したおようが叫んだ。
 外聞が悪いので、斎藤が渋々桔梗屋に上がらせて貰うと、おようは白粉を手にした男衆に「悪いわねぇ」と思い遣りつつ手招きした。
「実はお柳が引合に連れていかれはってん」
 如何にも斎藤ならそれまでの経緯を全て知っているだろうという切り出し方だった。その通りなので、何も言う事は無いが。
「河内屋菊次郎の遺骸を見たのは確かにおれ等三番組だが。生橋天神が引合とは、ちっと話が合わねえんじゃねえのか」
「それがね」
 奉行所の下役人の話に拠ると、お柳こと生橋を調べてくれと言ったのは、河内屋大女将のたつであるという。
 そもそも菊次郎が島原の芸妓を落籍して嫁にするというのに、良い顔をしてはいなかった。
「毎日まいにち綺麗なべべ着て男はんの気ィ引いとるだけの女子に、何が出来まっしゃろ。うちはそこそこの身代かて女将になろう思うたら一通りのことはやって貰わなあかしまへん。芸妓の細腕でどないなりますのん。第一、いったい何処の馬の骨ともわからん出自の女子やあらしまへんのか」
 と、たつは菊次郎に強く反対した。
 それでも菊次郎は、一度お柳に会えばどうして落籍したいと願ったのかわかる、と口説き落として漸う納得させた。
「お柳に会うてみて、何とかやっていける思わはったんでしょうね。大女将はんは」
 それで縁談は進んでいったのだが、その矢先に菊次郎がこんな目に遭った。
「菊次郎はんの手に銀簪があったのを疑うてはるらしいわ」
 たつが、
「それは急度、お柳はんのもんちゃいますやろか」
 と言ったので、下役人が桔梗屋を訪ったのだ。
 だが、お柳は簪に見覚えが無い、と首を横に振った。半刻程、尋問が繰り返されたが埒があかないので已む無く引合に出されることになった、とおようは重々しげに言った。
「うちはお柳ちゃんが菊次郎はんを殺す理由なんぞ、何もあらへん思いますけど。普通そう思いますやろ?」
 うむ、と斎藤は唸った。惚れ合った許婚者を殺す人間など、普通は居るまい。
「しかし、痴情の縺れということもあるぞ」
「横恋慕どすか」
「実はお柳には本当の情夫(まぶ)がいて、いよいよ河内屋の嫁になるのが惜しくなって共謀したとか。或いは、勝手に男のほうが横から懸想して、菊次郎を殺してしまったとか」
「三文芝居ようどすなァ」
 おようは軽蔑半分に言った。
「最近、生橋天神にご執心という客は?」
「さァ、変わりありまへんけど。田舎から兄さんの便りがよう来る言うてましたけど。近々京まで来るかて。婚礼の関係のことですやろうし、そんくらい」
「他に男の影は?」
「そう言われても――」
 思案顔のおようが目を上げると、斎藤がじっと凝視していた。「あッ」とおようは素っ頓狂な声を上げた。
「どうやら同じ考えらしいな。御仁の家は何処にある?巡邏の途中にでも寄って来るぜ」
「五条堺町筋のろうそく屋の借家に居たはりますわ」
 
 細い路地のどんつきから二階建ての屋根が見える。
 斎藤が訪ねて行くと、老婆が出て来た。大人しそうで小柄な雇い婆で、思えず威したりしないように気を遣ってしまった。
「先生なら、二階におますんで」
 と案内されて上がった其処は、足の踏処もない程の紙の洪水だった。
 しかも、どれもこれも女の裸体を描いた下絵だらけで、斎藤は目のやり場に困じた。
「とっ散らかってて、お許し下さいよ」
 京言葉ではない。窓下の小机から振り返った丸川重幸が、眼鏡を押し上げ言った。
 斎藤を覚えていたらしく、「ああ」と眉間の皺を緩めた。そうして下絵を適当に掻寄せると、座布団が下から出て来たので、斎藤に勧めた。
 無精髭に塗れた顎を見ると、数日間絵筆をとるのに専念していたらしい。
「気になさらんで下さい。暮に出す組物の下絵を頼まれていて、煮詰まっていただけです」
 丸川は真面目な顔付きで言った。
 組物とは、枕絵の暦といったところであろう。月替りで趣向を変え、男女の組み合う姿を楽しむものだが、近頃従来の御仕着せでは物足りなくなった購買者がもっと面白いものを、と望むので頭を抱えているという。
「京というので、堂上の閨の風景を描けという声も多いですな。ではいっそ、江戸からお越しになられたお歴々と堂上の姫君や女御との組打というのはどうかと、此処に描いてみましたが」
 丸川が指差す先に、一橋慶喜や会津中将に似た美丈夫の顔があった。
「しかし、さすがに版元にはこれはまずいと言われましてね。やり直しです」
 それはそうだろう、と斎藤は思った。とりわけ己の立場としては。
 否、そんな話をしに来たのではない、と気を取り直して斎藤は河内屋菊次郎の一件とお柳が引合に出された事を話した。
「何と。首なし死体の噂は聞いていましたが、河内屋の若主人でしたか」
 丸川も初耳で、さすがに吃驚したらしく、血の気が失せていた。
「生橋天神のことは」
「ここ暫くは組物のことで手一杯で、生写しをやっとりませなんだ。勿論、島原へも行ってはおりませんし、生橋天神が来たのはもう二十日程も前になりますかな」
 丸川は冷静に喋った。
 自分が何がしかの疑いを受けていることは、斎藤の口説から承知だろう。それにしても、何の屈託もなく恰も他人事のように話す。
「生写しってのは、当然裸でやるものですかね」
 斎藤は訊いた。すると、丸川は眉間に少し皺を寄せた。
「大首絵は裸じゃやりますまい。只、旦那衆の依頼もあったり、此方の修行の為にそうして貰うことはありますがね」
 丸川も満更女を知らぬでなし、着衣のままでも想像で女子を裸にして描くのが多いという。
 それでも時折珍しく自分から脱ぎ出す女もいたし、丸川のほうから頼み込むこともある。
「生橋天神にはずっとお願いしていたんですよ。天神にぞっこんのお客がね、是非とも落籍される前に生写しを隈なく描いて欲しいというので」
 其処まで惚れ込むなら河内屋より先に身請けすればよいのに、と斎藤は思った。客にも事情があるのだろうが。
「何しろ、枕をともにしても情夫でなければ襦袢の下はわかりませんからな」
 その通りである。斎藤も、只の客ならおようの素肌を知ることはなかっただろう。もっちりと掌に吸い付くようなきめ細かなおようの肌触りをふと思い浮かべた。
「で。先生はその、生橋の裸はお描きになったんですか?」
 斎藤の問い掛けが終わらぬうちに、丸川の顔色が青褪めていった。
「いや」
 だが、丸川の座布団の周囲にはお柳に似た女の裸絵が散らばっている。
「これは想像で描いたものだ。私は天神を裸にしたことはない」
 強い口調だった。
 暗にお柳とは男女の関係もないのだ、と否定しているようでもあった。
「頭痛がしてきた。申し訳ないが、そろそろお暇頂けませんか」
 丸川は机上に凭れ掛かった。斎藤は、「然らばお邪魔つかまつりました」と頭を下げて、借家を出たのだった。

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