(四)
むっとする熱気が市中を圧していた。
斎藤が木屋町通りを下っていると、商家の手代風の男が声を掛けてきた。
「やあ、和泉屋の徳次さんじゃないかえ。こんな処で油を売ってちゃいけねえや」
羽織の染め抜きを見ながら、斎藤は軽口を言った。
「先生こそ、昼日中から御酒の匂いがしまっせ。あきまへんがな」
「酒は目釘を湿らす為さ」
斎藤が言うと、徳次はぷっと噴き出した。
「いい加減やめまひょか」
和泉屋徳次こと新選組監察方の山崎烝が言った。
「ところで、例の河内屋の若主人が買ったという簪。何処の店の物かわかったんですか?」
斎藤の問いに、山崎は得意げに頷いた。
「蛸薬師高倉の香月堂いう小間物屋ですわ」
「さすがだな」
「いえ。奉行所の下っ引からの情報です。香月堂の主人のほうから、事件の噂を聞いてその銀簪はうちの物とちゃいますやろか言うてきはったとか」
香月堂に菊次郎からの注文が来たのは、三月ほど前だったという。「祝言の前祝いに渡したいので、とびきり上等なんを、花の透かし彫があるのがええですわ」というので、出入りの錺職人の中でも特に大名家の注文を任せている職人に頼んだ物という。
その銀簪を受け取りに菊次郎がやってきたのは、鴨川に死体となって浮かぶ二日前のことだった。
簪の出来栄えに満足して貰い、代金も頂戴した香月堂の主人は晴れやかな心持で菊次郎を見送った。
「けど、角を曲がって一寸行ったところで河内屋はん、誰か知らん面妖な男に呼び止められてました。人相はよう見えませなんだ。近頃目が霞むようになりまして。浪人のような風体どしたけど」
と、香月堂は奉行所へ報告したという。
「その証言もあって、生橋天神はすぐに引合を解かれたようですよ」
山崎は額を流れ落ちる汗を手拭で受け止めた。
通りを冷しあめ屋が通り掛ったので、斎藤は呼び止めた。二杯買って、一杯を山崎に渡す。
「あれ、斎藤さん甘いのは苦手やったんちゃいます」
「暑さには勝てん」
「おおきに――けど、話は戻りますが。そういう事やったら生橋は簪のことはほんまに何も知らんいうことですわな」
「空白の一日の間に菊次郎に会っていなければな」
島原の天神ともあろう芸妓なら、容易く出歩き回れるほど暇ではない。
奉行所でもその日と翌日、つまり菊次郎が殺された日は昼は踊りの稽古、夜はお座敷であったと言う。現に舞踊の師匠も、同じお座敷の禿や引手も証言している。
「で。山崎さんはとうにその怪しい浪人らしい男を探っているんだろう?」
斎藤は言いながら、舌を出した。やはり冷しあめは甘すぎる。
「言われるまでもあらしまへん。まァ斎藤さんと相生姐さんのお頼みやったら、いうことですわ。けど、そやったら新選組の山崎の仕事とちゃいまっさかいに。但し、河内屋殺しの手口が浪人者の天誅やいうことなら、堂々と探れますよって」
山崎は胸を張って言った。私的な事情では探索を出来ないからだ。
「大きい捕物になったら、それはそれで面白
(おもろ)いなァ」
「あんまり面白がらんで下さいよ。特に太夫の前では」
斎藤は小声で釘をさした。「おおきにどした」と、山崎は冷しあめの容器を返して去って行った。
斎藤がその足で団栗辻のおようの家を訪ねて行くと、すっかり真夏模様の一軒家の玄関には朝顔の鉢が三つ四つ並んでいた。
花は萎んでいた。水差しを持って出て来たおようは、斎藤の存在に気付いた。
「まァ殊勝やこと。朝顔に興味ありますのんか」
「なに、おれも人斬りが出来なくなったなら、花でもこしらえて売ろうかと」
斎藤が言うと、「ふん、とんと色気のおへん」とおようは玄関の戸を閉めようとした。斎藤の足がすかさず入る。
「生橋は戻ったそうだな」
「まあ。けど暫くお座敷は休ませるいうてお母はん。醒ヶ井の寮へ行ってますわ、お柳は」
おようは笑いながら斎藤を招じ入れた。
「生橋天神を訪ねて来たような男はいるかい?」
と、斎藤は縁側に近いところに胡坐を掻いて座った。さァ、とおようは首を傾げる。
「ご贔屓はんの御見舞いはありましてんけど。そういうたら河内屋からも何もありませんわ。本来やったら、嫁ぎ先やったのにね」
おようは不服そうに言い、団扇を使った。お茶を淹れて来ます、と立ち上がる。
丸川重幸は、生橋を素裸の生写しにしたことはまだないという。それが事実として、やはり絵師の本懐としては生の女体を写し取って迫真の一枚にしたいのはやまやまだろう。
丸川が生橋にそう懇願し、拒否されたのを恨んで菊次郎を殺害する。というのは、かなりこじ付けがましいか。動機がない。
あるとすれば、丸川が本気で生橋に惚れた場合か、或いはいずれ近々妻となる女の裸体を描くなど許し難い、と菊次郎が丸川のところへ踏み込んだか。話が縺れて刃傷沙汰になり、菊次郎が丸川に刺される。
「しかし、あの浮世絵先生そこまで激情家とも思えんが」
ぶつくさ言う斎藤に、「何を独り言言うてんのかしら、気色の悪い」と、おようは茶を運んできた。
「いや、丸川先生はどういう素性のお人だい?京言葉じゃなくて、どうもお堅い」
「判らはりますか。元々は府内にいはったそうどす。漢方医の何処ぞの藩の御抱医師の跡取りやったそうで。大坂に遊学に来はった時に絵を描いて学費にしてはったらしいわ」
医者は腑分けの図や人体を描いて説明をするので、手先が器用である。元より丸川には彩管の才能があったのだろう。巷の美人などをさらさらっと一筆で似顔を描いたりして評判になり、京の某派に弟子入りしたこともあるらしい。
結局は絵の道が面白くなって、医者になるのをやめたので親から勘当され、いつしか美人絵、春画専門の絵師になってしまった。
ふうん、と斎藤は茶を啜った。
「ということは、人間の急所は学んでいるわけだな。ヤットウの腕はなくとも、相手もやはり素人なら手こずるまい」
「一寸、何を言わはりますのん」
おようは怪訝な顔付きになった。
「先生が河内屋はんを殺す理由なんかあらしまへんやろ。絵のことになったら目の色変わるけど、女子の胸の内なんぞ、とんとお構い知らずのようなお人が」
河内屋とお柳の仲に水を差すような振舞いはすまい、というのである。
やはりそうなのだろうか。
「おようはそう言うが、男心も複雑なのかもしれんぜ」
と言いながら、斎藤は襲い掛かる真似をしておどけた。「いややわ」と笑いながら満更でもないおようは、斎藤が帯を解くのに任せていた。
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