(五) 

 祇園会のお囃子の稽古が聞こえるようになった。鉾建てもはじまった六月の朔日である。
 巡察の途中、町会所に立ち寄った斎藤は、そこで事件を知った。
「五条堺町筋のろうそく屋で殺し?」
「裏の借家で若い絵師の先生が刺されて死んどったそうです」
 番の若衆が不快そうに言った。
「そりゃ、丸川重幸先生だな」
「へえ。婆やが買物から帰って呼んでも、返事があらしまへん。先生、下絵描きに熱中しとったら朝か夜かも気付かへんらしいよって、またかいなと暫く待ってみてもどもない。夕餉が出来たんでお膳を運んで行ったら……」
 蒸し暑いというのに、襖は閉め切ったまま。開いてみると血の海で、座敷の真ん中にとっ散らかった絵とともに丸川が横たわっていた。胸の下から身体の半分は血染めである。
 婆さんは余りの事で気が動転し、その場に暫くへたり込んでしまった。
 漸く、ろうそく屋の女中が婆さんに用があって訪れたのだが、婆さんは丸川の変事を告げるので精一杯であった。
「まさか自殺ではあるまいな」
 斎藤は訝った。菊次郎殺しを気に病んでの自害か。
「殺しに決まってますがな」
 と茶々を入れてきたのは山崎烝だった。今日は素浪人風の出で立ちである。
「死体の手元に奇妙な書き残しがあったいうこってすわ」
 今わの際に書いたものか、下絵の一枚に血の指文字で「はんげつ」と記してあったらしい。
「はんげつ――半月とでも書くのか?」
「まあ、そうですやろな。半分の月。意味わからしまへんけど、自害する気やったらそない中途半端なことせんと、先に遺書をしたためときますやろ」
 山崎の言は尤もである。
「辞世の句でもひねろうとしたか」
「斎藤さんはそうかしらんけど、普通の人間はそない余裕あらしまへん」
 山崎はけたけた笑う。
「丸川先生を殺した奴の名前、と考えるのが妥当やと思いますけど。そうやとしたら、半月なんぞ俳句の宗匠や役者。はたまた芸妓のことですかいな」
 ううむ、と斎藤は唸った。
 肝心の丸川が死んでしまっては、菊次郎殺しの一件は再び暗礁に乗り上げてしまう。
 やはり丸川は無関係だったということか。
「しかし、何で丸川が殺されたんでしょうね」
「さァ。聞くところによると、島原の芸妓のあぶな絵とか御公儀を風刺した組物なんぞ描いとったんですやろ?誰に狙われても、ある意味おかしないんちゃいますか」
 それにしても、たかだか絵師の言論や刷り物に目くじら立てるとは。そうすると、「半月」という人物の素性も何とも言えない。
「ところで。香月堂のほうは進んでるんですか?」
「ああ、例の男どしたら」
 菊次郎が銀簪を手に入れた日の翌日、目撃者があったという。
 美濃屋の主人と三本木で会った直後のことらしい。鴨川端を歩く菊次郎の後をつけていく若い男がいた。
 やがて、その拙い尾行に気付いたか菊次郎が振り返った。
 そこで何やら二人は立ち話をしていたという、見ていたのは、三本木の芸者の一人だった。
 時々、菊次郎らの宴会に出張ってくる年増の三味線引きである。
「遠目ですけんど、何や河内屋の若旦はんは困ったような様子どしたなァ。話が行き詰ったんか、急に怒ってその男の人を突き飛ばすようにして下って行かはったんで、それきりです。その後、あないな事になって」
 極めて重要な目撃談であろう。芸者は、同じ事を奉行所でも話していた。
「どうやら菊次郎を殺ったのは、その男という線が強いな」
 斎藤が腕組みをすると、山崎は首を振った。
「いやいや。まだ其処までわかってしまへん。河内屋も大女将の意向で大っぴらにせんと、内密に調べてつかあさい言うとりますよって、まだこれ以上のことは」
 早合点はいけない、と言う。山崎は、
「とにかく片っ端から半月いう名前に当たってみますよって、期待しとくれやす」
 と、言い残して去って行った。町会所を出た途端に上方言葉から江戸言葉になっている。その器用さに斎藤は改めて感心しながら、自分も歩きだした。
「おれもこうしちゃおれんな」
 斎藤は、一旦屯所に戻ってからまた出掛け直した。壬生村から北へ上がる。中途で葛餅の涼しげなのを購い、五条醒ヶ井まで来た。
 桔梗屋の寮は幾つかあるが、此処は小ぢんまりとしていた。
 おようの一軒家も寮といえば寮だが、あれは彼の女の私物なので斎藤は自在に出入りする。しかし、島原の芸妓の寮となると、何となく敷居が高かった。
「御免」
 としゃっちょこばって門を叩くと、小女が顔を出した。はじめ小女は斎藤にあからさまに怪訝な顔をした。
 だが来意を告げると、小女は「さいですか。相生姐さんの」と、柔軟な態度になって斎藤を快く招じてくれた。
 相生太夫の情夫と解釈されたのだろうが、間違いとも言えないので否定はせず、二階に上がった。
「御見舞いおおきにありがとうさんどす」
 生橋天神ことお柳は、斎藤に頭を下げた。
「こないな格好ですんまへん」
 と言ったお柳は、浴衣姿だった。それはそれでしどけない風情の色香が漂う。
 やつれた面も殆ど化粧などなく、髪も櫛揚にしただけだが、何ともいえない男心をくすぐる艶かしさ。
「こりゃ菊次郎でなくとも、気もそぞろになる。丸川だって仏頂面でいられたかどうか」
 斎藤は内心思った。おようには呆れられるか知らないが、男は様々な花を愛でたい生き物である。
「天神にはこんなことになってお気の毒だが、気を落としなさんな」
「ええ」
 答えるものの、お柳は袖で口を覆い、涙ぐむ。
「こんな時にさらに申し訳ないことを言うが。堺町筋の丸川先生が亡くなったのは聞いちゃいるかい?」
「えッ」
 お柳は目を皿の様に見開いて絶句した。
「……まさか、嘘ですやろ」
「どうやら殺されたようでね」
 お柳は畳の上に突っ伏した。うう、と呻いて肩を震わせている。斎藤は容赦無く言葉をかぶせる。
「部屋中血の海でな。死に際に、先生が血文字で何か書き残そうとしていたらしい。はんげつ、と平仮名で」
 お柳が泣き止んだ。肩をもたげて斎藤のほうをちらりと見るが、それが凄艶だった。そして、またややあって顔を伏せる。
「お前さん、心当たりはないのかい。そうかい」
 お柳は頷いた。
「ついでだが、菊次郎旦那を殺した奴が見付かりそうでね」
「ほ、ほんまどすか」
「新選組の探索の力は生半可ではないぜ。何だか、お前さんまだ顔色が悪いな。ゆっくり養生するといい」
 斎藤は静かにそう言い残して、寮を出たのだった。醒ヶ井(佐女牛井)というだけに、朝な夕なと近隣の人々が井戸に湧き水を汲みに来ていた。
「さて。お柳の顔色が悪いのは、引合で疲れたからではなさそうだ」
 斎藤は呟き、懐手になって足早に歩き出した。

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