(六) 

 夜とはいえ、日中のうだる暑さが残る。祇園社の御旅所前に並ぶ献灯でさえ、熱気に揺らいでみえる。
 斎藤が夜の巡察に出るのは久しぶりだった。祇園会の直前というのもあって、人出が多い。前年のような騒動はないとしても、祭の時期は何かと物騒であるのでいきおい警邏の員数を増やすことになった。
 流れ橋を渡って東へ向かう四人の男の最後尾に、斎藤はいた。
 面垂れをつけた、異様な風体の祇園神灯目付らも巡回している。一瞬、先頭を行く死番の者がびくりとなったが、慌てて立ち止まり会釈をする。先方も明らかに羽織を見て新選組と知ったらしい。
「普段はとまれ、この時期になるとああやって御旅所と社を往復して見廻っているのだ。人が多いので、誤って余人を斬らぬように心してかからねばな」
 と、斎藤が言った時である。
 橋の手摺の反対側から、わっと押しかけた頭巾の男がいた。
 男は脇差を握り、斎藤目掛けて突進してきた。
 斎藤は、ふわりと避けた。避けて男が体勢を立て直そうとするところを、不意に鞘のまま国重を抜き、したたかに背中を打ち据えた。
 もんどりうって倒れた男に、他の三名がわっと詰め寄る。
 血の気の多い連中なので、既に抜き身だった。
「待て待て。斬ってはいかん」
 斎藤が叫ばなければ、既に男は串刺しになっていただろう。
「さて。この隊服を見てわざわざ斬りかかってくるとは、大した度胸だぜ」
 斎藤が男の二の腕を引いて立ち上がらせる。はらりと頭巾が落ちた。
「あッ、お前さんは」
 橋の上に茫然と膝立ちになっていたのは、河内屋菊次郎だったのである。
「どういう事だい河内屋の旦那。生きていたとはな」
 すると、菊次郎はわなわなと唇を震わせ、項垂れた。
「……こないなったらもうあきまへん。ひと思いにばっさり斬ってください」
「お前さんを斬る理由が思い当たらんが」
 斎藤は首を捻った。他の隊士三人も訳がわからないまま、菊次郎を見詰めていた。
 菊次郎は俯いたまま、
「大変なことをしでかしてしまいました」
「まさか人殺しかい」
 斎藤の問いに、菊次郎はゆるりと頷いた。
「往来でその話をするのもみっともよくねえ。一寸下ったところに知己の家がある。其処へ行って、詳しく聞こうじゃないか」
 と、斎藤は隊士らに巡察を続けるように命じ、自分は菊次郎を連れて団栗辻まで向かったのだった。
 やがて座敷を早めに切り上げたおようが夜更けに戻ってくると、斎藤はほっと安堵した。
 菊次郎は「相生姐さんが居るほうがええ思います」と言うので所在無く斎藤は一人で酒をちびちび飲っていた。菊次郎にも勧めたが、やはり飲もうとしなかった。
「まあ」
 菊次郎を見るなり、口を金魚のようにぽかんと開けたおようが、それでも優美な仕草で畳ににじり座った。
「足はあるぜ」
 すかさず斎藤。
「四条橋の上でおれに斬りかかってきたのさ。返り討ちにするとこだったぜ、危うく」
 と言い掛けて、斎藤ははっとなった。
「もしかしてお前さん、おれに斬られようと?」
 菊次郎は瞠目した。それから固く拳を握り、何度も頷く。
「……鴨川の屍体も丸川先生も、殺したのは私なんです」
 おようは呆気に取られていた。斎藤は菊次郎に近付き、正座した。
「奉行所へ行く前に、洗いざらい話しちまえよ」
「……はい」

 河内屋菊次郎が香月堂へ立ち寄ったのは、無論銀簪を受け取る為であった。
 簪の出来に満足し、「これを丸髷に結うたお柳の黒髪に挿したら、どないに映えるやろ」と想像しながら河原町を下って行った時だった。
 香月堂を出てから、何とはなしに誰かが背後からつけてくるような気配がする。
「誰ぞ御用金を無心に来た浪士か。まさか、組合に反対する同業の手先か」
 京洛が騒がしくなってからというもの、攘夷の御用に使う金を出せと押し込んで来る不逞の浪人者は多く、河内屋でも対応に辟易していた。
 或いは菊次郎の遣り方に反対している割木屋の連中がいて、付狙っているのか。美濃屋と会っていたことで咎め立てするつもりだろうか。
 御用盗もともかく、不良品を高値で売り付ける小売を取り締まらねばならないという所司代への談判を嗅ぎ付けられているやもしれない。裏商売が出来なくなると困る連中が、菊次郎を面白からず思い、命を狙うことも考え得る。
 人通りがなくなったところで、菊次郎は足を止め、振り返った。
「何ぞこの河内屋に用ですかいな」 
 目の前に若い浪人者が立っていた。見るからに尾羽打ち枯らしたというのではないが、それなりにうらぶれていた。顔付きは卑しくないものの、口元の歪みが不敵だった。
「河内屋菊次郎だな」
 男は確かめると、けたけたと怪鳥のように笑った。気が触れているのかと思った。
 雇い人斬りなら油断させておいて斬り殺しにくる、と菊次郎は覚悟した。短刀は携えており、菊次郎自身も道場に通って多少の心得はある。
 が、男は向き直ると、
「おぬしも酔狂者だな。おれは辛島新兵衛という。備前岡山の脱藩で、お柳とは幼馴染よ」
「お柳」
 菊次郎は鸚鵡返しに言った。島原の芸妓は名目上、京の産湯を使ったことになっているが、大半は他所から女衒に売られてきた娘ばかりである。お柳が岡山の出とて、おかしくはない。
 すると、お柳は浪人者の娘か士の妾腹の子か。
「酔狂者の河内屋どの」
 新兵衛はまた言った。笑いながらのように見えた。
「噂で聞いたが、おぬし本気でお柳をめとる気か?」
 今会ったばかりの男に何故そんな事を聞かれねばならないのだ、と菊次郎はむっとした。
「それはたとい幼馴染でかて、お武家様には関係あらしまへんかと思いますが」
 「ほう」と新兵衛は唸った。そうして、狼のように黄ばんだ糸切り歯を剥いた。
「しかしあ奴は女子ではないぞ。元は男なのだぞ」

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