(九)
だが、更に有り得べからざる出来事が起こった。
お柳が暇を見つけ、五条醒ヶ井の丸川重幸のところへ行くと、何やらいつもと先生の様子が違う。
普段から何処と無く険のある目付きではあるが、その日は尚更狂気を孕んだような、猛禽を思わせる目付きでお柳を見詰め、
「先日、辛島新兵衛という男が訪ねて来たんだがね」
既に此の世にいなくなったと思っていた人物の名を聞いて、お柳は背筋がぞっとなった。丸川は少し瞬きした。
「お前さん――お前さんが裸絵を描かせてくれなかった理由がわかったよ」
「何のお話どすか、先生」
「ふたなり」
丸川はそう言って、無表情のままお柳に詰め寄った。
「絵師としてもそうだが、わしは医生でもあった。医学的な興味、いや参考とさせて貰えまいか」
「い、厭どす」
ここが丸川という男の変わったところであろう。
己の芸術的関心、興味を追求する為には相手の都合などお構いなしである。丸川はお柳に拒絶されると、怒り狂って掴み掛かろうとした。
お柳は丸川を突き飛ばし、這うようにして階段を下り、逃げた。
日がな部屋に籠もって絵ばかり描いている丸川に膂力はない。漸く起き上がって散らけた下絵を押し退けつつ部屋を出ようとしたところ、不意に襲われたのである。
刺したのは菊次郎であった。
お柳がろうそく屋へ出向くのを追って来たのだった。新兵衛がその角でお柳と出くわしたというのなら、急度丸川にも要らぬ知恵を吹き込んでいるに違いないと考えてのことだった。
案の定、予測していた不吉な事態が起こった。こうなったら絵師も口塞ぎをするしかない。
河内屋菊次郎は、奉行所の引合でそのように丸川殺しも自白した。
「はあ"はんげつ"いうのは、半陰陽いうことやったんですか」
今日は飴売りの格好をした山崎烝が、腕組みをして唸った。
「わても鍼屋の倅やけど、そないな言い方があるとは存じまへなんだなァ」
ああ、と斎藤が相槌を打った。
「ほなら妙ですな」
死に際に犯人を指すなら菊次郎と書かねばならない。
それを"はんげつ"ではお柳になってしまう。奉行所では菊次郎は、
「丸川先生は私の顔を知りまへん。けど、何やわからんけどお柳の関係者や思うて、そう血文字で書かはったのでは。もしかしたら、お柳に拒まれたんを恨みに思うて、最後にばらしてやろうと考えたかわかりまへんけど」
と、語ったと言う。
「それにしては辻褄が合いまへんな」
山崎は唇を尖らせた。
「慌てて他人の部屋に上がって、膝立ちになったり正座のままかてあらしまへんやろ。よっぽどお行儀の宜しい御方や、菊次郎はんは。座ったまま、脇差であないに深う刺さはったんですかね。余程の怪力や。うちでは島田くらいちゃいますやろか、そないに出来るのんは」
丸川が立っていたというのなら、刺せばそうなる可能性がある。しかし、菊次郎はそう告白していない。
「やっぱり河内屋の若旦那、あの娘を庇うたはりまんな」
「しっ」
斎藤は唇の前で指を立てた。
お柳は端から身の危険を感じ、脇差を何処からか持ち出して丸川の元へ行った。脇差は郷里を逐電する時に持っていた物なのかもしれない。
「元は藩士の子だからな」
斎藤は、ぽつりと呟いた。
菊次郎の訊問かが終わった翌日、お柳が再び奉行所に呼ばれることになっていた。
だが、お柳は現れなかった。隠れ駕籠と呼ばれる所司代や奉行所が参考人を召す時の駕籠が寮まで迎えに行ったが、寮は蛻の殻だったという。
小女は「奉行所へ引合に行くと言うたはって、お出掛けんなりました」と答えたが、やはりその翌日も、お柳は現れず終いであった。
三日経って、鳥辺山の麓で女の行き倒れが見付かった。
身元を調べると、その女こそがお柳であった。
山道の木陰に蹲るようにしており、村人が抱え起こしてみると、喉を脇差で一突き、夥しい血を流して死んでいたという。
遺骸を検めに行ったおようが、酷く目を赤く腫らして桔梗屋に戻って来た。
「お柳ちゃん、うちに手紙を」
おようはそう言って斎藤に書状を渡した。
其処には己の出自と、辛島新兵衛及び丸川重幸を殺害したのは己であり、菊次郎は己を庇って罪を被ったのだと書き記してあった。
確かに女の細腕では男二人を殺すのは難儀だが、言われてみればお柳は普通の女子よりずっと腕力がある筈だ。少なくとも、菊次郎よりは剣も得手だろう。
菊次郎はこの書状に拠って、もう一度吟味されたのち釈放となった。
「それにしたって、あんまりやわ」
おようは涙ぐんだ。
「はんげつかどうか知らんけど、あの妓
(こ)は誰よりもええ女子やったのに。親兄弟も田舎も捨てて、女として生きて行こうとしてたんやないの」
珍しく強気なおようが顔を覆う様に、さしもの斎藤も言葉に詰まってしまったのだった。
自らも多くのものを捨てつつ生きているおようにも、深く感じるところはあろうし、斎藤自身も身につまされるものがあった。
ひと月経って、屯所に斎藤を訪ねる者があった。
「こんな夜更けに誰だろう」
思い当たる人物もなく玄関まで出てみると、托鉢僧だった。
「此の度は大層ご迷惑をお掛けしました」
と、笠を取ったその下に河内屋菊次郎の顔があった。すっかり丸坊主になっている。
「菊次郎さん。お店をやめたんですか」
「いえ、お店は大番頭はんに仕切って貰うて、従兄弟を養子に迎えて続けるいうことにしたんです。まだお母はんも健在ですし、私はもう家に居ることも出来まへんので」
菊次郎は寂しげに笑った。
京にいるという自体が耐え難いような心地がして、知己を頼って仏門に帰依し、これから高野山のほうへ向かうのだという。
「逃げるつもりやおまへんのどす。修行して、いつかまた戻って来たいと思うてます。それではじめてお柳の供養を果たせるんやないかと。私らの浅慮の為に死なはった辛島様、丸川先生に対しても」
斎藤は黙って聞いているしかなかった。
菊次郎の襟の合せ目から、銀簪が覗いていた。
「――斎藤先生。結局、お柳は柳之助から最後に脱けられなんだんやと思います」
「どういう意味だい」
「へえ。私ら町人の落とし前は、きったはったや切腹やのうて、義理と金です。しがらみ、とも言いますわな。勿論、お武家様にもございますやろけど、人を殺めたらその人だけやない、家族やお客様やいろんなお人に響きます。それを考えたら、お上の裁きは受け入れるとも、腹を切るだけでは済ましまへんのどす」
斎藤は、言われて見て成る程と思った。
「そこをお柳は最後の最後で、お侍はんに戻ってしもうた。……せやから自害してしまったんでしょう」
菊次郎は桔梗屋やおよう、丸川の縁戚などにも詫び状を送ったという。金品を寄越せという者もいて、それなりの対応をしたが、それがお店の誠意という。
確かに死んで罪を償って終わりではない。残された者には明日がある。
ゆえに菊次郎は生きて仏門に入る道を択んだ。
菊次郎は、夜空を見上げた。星は無い。
千草柳之助はお柳に為り切れなかったのではなく、侍の子から町人に為り切れなかったのである。満月でもなければ、新月でもない。
中空に月が懸かっていた。
「切ない半月ですなァ」
斎藤が真上を見上げて呟いた。
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