(一) 島原道中

 島原で「老公」の逢状を断った太夫がいるというので、噂が持ちきりである。
 提灯持った引舟(ひきふね)のあとに禿(かむろ)が二人。なべて十貫の衣装を纏った太夫が姿を見せた時、人々が声無き歓声を上げた。六つの下刻は太夫の道中時刻であり、置屋から宴のある揚屋へとそれぞれ絢爛豪華な道中が繰り広げられる。中には手弁当持参で道中見学に来るという人々もいるほどである。
 置屋同士、太夫同士に序列は無い。だが、今宵長い首筋を鶴のように気高く伸ばし、すらりと高い身の丈をより優美に張り詰めた相生太夫の道中には、いつもなら先に進む他の太夫も立ち止まる。
 人々の中から、
「あれが老公をけんもほろろに振っとるいう相生太夫か」
 という声が聞こえる。
「ほんま、鶴の舞い降りたようなこったいはんやのう」
 「老公」というのは前(さき)の土佐藩主・山内容堂のことである。老公と言っても、まだ三十七の男盛り。乗馬で鍛えた五尺六寸の逞しい肉体と、引き締まった容貌は、京童も凛々しいと評判する見栄えである。
 入洛に際し、大名にもかかわらず駕籠を用いず乗馬であった。
「あんな殿様見たことおへん」
 と、洛中の人々に言わしめる傾(かぶ)きぶりで人目を引いた。のみならず、容堂は安政の大獄において隠居の身に処せられ、大老・井伊直弼の死後赦免されて、現在のように外様でありながら幕政に容喙している。一橋慶喜、松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城と並んで四賢侯と呼ばれるに至った。「混乱する京にこの人来ば」と言われて天下の政道云々出来るだけでなく、詩文にも通ずる男と言われている。
 年中酒気を帯びており、書物を読みつつ呑み耽り、時には女子と戯れながら読んで呑む。政治家というよりは、酒色を愛する無頼漢の気味であった。そういう容堂であればこそ、袖にする太夫がどんな女であるのか誰もが興味を持ったのである。
 文久三年(1863)正月二十五日。
 容堂は初めての入洛で、智積院の隣の妙法院の宿陣へと入った。
「三本木は何処だ?」
 着替えるなり御側役の山地に言う。やはり馬を駆って行くつもりなのであろう。
「御所より東北東にございます。しかし殿。京にありますればまずは島原へ拝謁なさるのが宜しいかと」
 容堂はややむっとしたが、「そうか。島原の太夫は正五位を持つというからのう。おれは堅苦しいのは好かんが、何酒が入ってしまえば島原も吉原も同じよ」
 そう言って、島原へ赴く事になった。
 太夫を揚屋に招くには逢状(あいじょう)を書かねばならぬ。宵の口から揚屋に上がり、是非とも太夫に逢いたいという旨の書簡を差し向け、承諾を得てはじめて太夫が出向くということになる。その間、ひたすら客は待たねばならないのだが、これを聞いた時点で容堂はげんなりしてしまった。
 だが、酒を飲む間、詩作にでも耽るがよかろうと考えた。さいわい容堂は昔からの宵っ張りである。少々の夜更かしはどうともない。問題は、逢状を向ける太夫が容堂の好みであるか如何である。
 そこはそれ、ご隠居の身とはいえ土佐二十四万石の主がこの傾城の門を潜るというので、角屋の主人も色めきたった。
「おれは教養の無い女子は好かんのでな。歌の一つも詠めんでは困る」
「へえ。それは島原傾城というお方がたは三十人程おりますが、皆一通りの事は知っとおいやす」
 角屋徳右衛門は丁重に答えた。心の内では、どうもこの大名、江戸吉原の花魁と勘違いしているのでは、と思ったかもしれない。
「一通りでは面白くないと言っておるのだ。器量はいいに越したことないが、勘のいい女はおらんか?」
「そうでございますな。桔梗屋の相生太夫がよろしゅうおますかと存じます。何より機転の利くこったい(太夫)はんどす」
 このような訳で、相生太夫に白羽の矢が立った。
 ところがこの日は既に堺の唐物問屋、柏屋伊右衛門の逢状が先に掛かっていた。かといって天下の四賢侯の一人、山内容堂のお呼びを無視するわけにはいかないだろうと、桔梗屋の女将は伊右衛門に掛け合いに行こうとした。
 だが、太夫は首を横に振った。懐から年季の入った扇を出し、閉じたり開いたりしながら太夫は言った。
「いいえ、お母はん。どないにお偉いお方であろうと、島原には島原の流儀があらしますやろ。柏屋はんをお断りしたらあきまへんえ」
 きっぱりと言い、夕顔の描かれた扇子を閉じた。その後は一切取り合わず、揚屋へ向かったという。慌てたのは角屋であったが、もう既に相生太夫は柏屋の座敷に着いている。徳右衛門が恐る恐る容堂に事情を申し上げると、
「よかろう。今夜は島原がいかなる場所かを試しにきたのである。誰でも構わん」
 徳右衛門はほっと胸を撫で下ろした。
「しかし、その相生太夫とやら、一度逢うて見たいのう。島原には島原の流儀があるというなら成る程。禁裏で演舞する太夫ともなれば丁重に応対せねばならんのも尊皇のつとめ。言うよのう相生太夫。頭のはしこい女子よ」
 容堂は膝を叩いて笑った。相生太夫が容堂の逢状を却下したということは、一夜のうちに島原中に知れ渡った。
 その言い草がが太閤様以来の伝統ある遊郭としての島原の誇りを見事に顕した、と花街の界隈は喜んだ。が、同時に祗園新地などでは、そんな気位の高いことだから流行らないのだ、と皮肉を言う者も多かった。
 日頃は各々妍を競う太夫たちだが、殆どの者が相生太夫の毅然たる態度に同調した。
 ただ一人、当夜容堂の敵娼(あいかた)をつとめた、いわば相生太夫の代替であった同じ置屋の吉栄天神は複雑な心地であったに違いない。今宵も辻で相生太夫の道中を見遣りつつ、吉栄は何処か煮え切らぬ気分化粧(けわい)の下に押し隠していた。

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