(二) 万寿寺通
丁度その頃、島原近く壬生村に浪士の一団が陣張った。江戸より将軍上洛の警固の為集められた、浪士一団の一部である。上京後すぐに揉め事があって、首領の清河八郎をはじめ殆どは東帰したが、本来の目的を果たしていないと主張し居残ったのが、十三名である。芹沢鴨ら水戸出身の一派と、近藤勇ら江戸の試衛館一派である。彼等は京都守護職・松平容保の御預となり、「壬生浪士組」を名乗って京洛の治安に一肌脱ぐことになった。
その中に斎藤一がいた。
万寿寺通の一軒家でおようが茶を点てていると、玄関が開く音がした。外は篠つく小雨であった。
雨の滴を払いながら、腰を折り曲げて斎藤が入ってくる。
「あら。傘はどないしはりましてん」
いつもの柿渋の番傘を提げていない。雨の中を壬生から延々歩いてきたのだろうか、とおようは訝った。
「途中で失くした」
と、斎藤は無愛想に言った。
「なくすような物やおへんやろ」
「研屋に寄った。小降りになったんで、うっかりとな」
高下駄を脱ぐ斎藤に足湯の桶を出す。田舎道を歩めば幾ら高下駄でも足の甲まで泥が撥ね飛んでいた。斎藤は自分で反りの深い足裏を丁寧に拭い、上った。
その無駄の無い立居振舞がおようは好きである。おそらく初めて斎藤に会った時から何よりその武士然とした美しい所作や、細くしなやかな手指が。斎藤がこの仮住いへ通うようになってからふた月余になる。
二階の窓から眺める鴨川の流れが涼しげで、斎藤は寄り掛かって酒を呑む。六月の残り梅雨が真綿のような湿気を屋内へ押し込んできた。
「暑うて暑うて。うちはこない蒸し暑い夏は嫌いですねん」
おようは言いながら、斎藤に酌をした。お座敷では決して有り得ないことである。相生太夫を名乗っている座敷では。
「海がないからな。それに江戸の川はもっと広い。風がよく通る」
「江戸には行ったことおへんし、わからしまへんわ」
おようは団扇を使いながら窓の外を見遣った。斎藤は悪かったな、と言い酒を干した。
「ところでこないだの宴会で聞いたぜ。お前さん、老公をそでにしたってな」
ま、とおようは柳眉を逆立てた。それは、斎藤と知り初めるふた月も前のことではないか。
「そないな話、誰が?黙っといて言うたのに」
斎藤はうむ、とうなったきり猪口を弄んでおようの細面を上目遣いに見た。おようはぴんときた。
「吉ちゃん、吉栄やね言うてたんは。ほんにしょうないわ」
斎藤は答えなかった。図星なのだろう。吉栄はおようより二つ年上だが、太夫上がりしてない天神で、たまたま目上の引きがない為に出世が遅れた妓である。芸事は万事そつがない。しかし、おようのように素面でも見栄えのする背の高い絵姿風の美女ではない。近頃、壬生浪士組が島原に出入するようになって、吉栄には馴染みの客が出来た。芹沢一派の平山五郎である。
吉栄は平山に惚れてしまって、他のお客のお座敷に出るのが億劫だ、とこぼしていた。
「ほなら平山はんに太夫上がりの仕度して貰いいな」
と、桔梗屋の女将は言うのだが、会津藩御預とはいえ、組頭の平山にそんな余裕はない。
「吉栄、この際あんたご老公のお気に入りになって、打掛やら櫛笄やら何から出して貰い」
そうとも言われて山内容堂のお座敷に出たが、揚屋に入るまで半分べそをかいていた。
「いやや、あん御方は女癖悪いいう噂やし、うち酒臭い男はんは好かん」
それで、初めに断ったおようも後々気懸りになった。しかし、それ以来吉栄と同じ座敷があっても、口もきいてくれないのだ。吉栄はおようこと相生太夫の客である斎藤に、その話を聞かせ、己の気持ちを遠回しに伝えようとしたのか。
「島原には島原の流儀がありますよってね」
おようは笑んで、酒を注ぐ。すると、斎藤はおようの手首を掴んだ。
「それだけかい。むしろ理由もなしに逢状つき返したのじゃないか?」
「何でそう思わはりますのん」
おようは妖艶な挙措で斎藤の手を解いた。
「お前さんは太夫の仕事に誇りを持っているだろう。普通、容堂侯のような方が逢状を出したらいやとは言わんだろう」
「斎藤はんとご老公どしたら、うちは斎藤はんを取りますけど」
おようはきっぱりと言った。婀娜な微笑が浮かぶ。
「そうじゃないさ」
言い掛けた斎藤の肩に、おようはつと頬を乗せ掛けた。斎藤が唐突な行為に弱いことを、おようは見抜いている。口篭ってしまった斎藤の腕を、小袖の上から掴んで、おようは呟くように言った。
「今晩は帰らはりますか?帰らはらへんのやったらお話しまひょか」
斎藤は黙していた。おようは体を離し、いつもの芸事の稽古をするようなしゃんと張りのある姿勢になると、涼しげな目元を細めて言った。
「ほならうち、ほんまのこと言いますえ。長い長い退屈なお話どっしゃろけど、堪忍して聞いておくんなさい」
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