(三) 土佐・南屋敷
城下の南に潮江川が流れている。遠く北に天守閣が見えるところで、おようは生まれた。
弘化二年(1845)の初夏のことである。
生母は郷士の娘で、さるお屋敷に奉公にあがった。お屋敷の主は「南様」と呼ばれる弱冠の若様で、城下には西様や東様と呼ばれる身分の一門があった。なかんずく南様は悍性のきらいがあって、貴人というよりは市井の男伊達のようであり、それ故か妻帯していない。
「屋敷の女子どもは見目が悪うて、とても手をつける気にはなれん」
というので、郷士の娘の中から器量の良さそうな女を数人選って侍女にした。
おようの母がその一人である。
おようは南様の初めての子となった。南様は唐の漢詩の一節を詠んで寿ぎ、「瑶
(よう)」と名付けた。「たま」という意味である。中国では珍重される「ぎょく」に似た玉のことをいう。
その後、南様には時をおかずして別の側女に男子が生まれた。順風に行けばその男子は跡継になり、おようは南屋敷から城下あるいは近隣国の上士に嫁ぐであろう将来が広がっている。
ところが降って湧いたような転変が南屋敷を訪れた。
南様に藩からの命が下り、江戸へ向かうことになる。
そして、江戸から帰って来た時は南様は南様ではなくなり、おようとその母、側女らを取り巻く運命もすっかり変わっていたのである。
南様が屋敷に戻ることはなかった。幼いおようには父の不在の意味が判らない。
「父上は御養子になられたのです。これからは母と二人で生きねばなりません」
母はそう言った。果たしてそんな事があるものかとおようは後々思ったが、そうしておようが六歳になった年の暮れ、母子は南屋敷を出た。
南様の御側役のはからいで、箕輪隆三という郷士の後妻へ行くことになった。
最早、おようの記憶に南様の顔も屋敷の面影もない。
ただ、母は南様から頂戴した扇子を持っており、時折それをおように見せてくれた。屋敷の中に大きな樟があったというおぼろげな印象と、涼しげな夕顔の文様の扇のみが南様を知るよすがであった。
石立村へと越してからのおようの生活は面白味に欠けた。義父・隆三は恰幅のよい好人物で、おようを可愛がった。
郷士というのは半農半士で、いわゆる地侍である。おようの母はもともと生家が郷士であるので、馴れない屋敷奉公よりはずっと馴染んだようである。
しかし、おようはこの生活に溶け込めなかった。城下の暮らしぶりに格別の思い入れがあったのではない。
土佐の身分制度というのは他藩と違って独特のものがある。戦国以来の特殊な事情があった。上士と郷士に分かれているのである。
藩祖・山内一豊が関ヶ原の役の後、土佐に入城した時待ち構えていたのが、前の国主であった長曾我部家の侍たちであった。遺臣たちは領土返上のお触れに反旗を翻し、一揆を行った。一度や二度ではない。以後、綿々と山内家の治める二百数十年続くのである。
新領主側も酷烈に郷士狩りをやれば、それを上回る頑なさで反抗する、の繰り返し。この二重構造は他藩にないことであった。
おようが許せなかったのは、上士の郷士に対する態度である。二刀差しといえど、殆ど百姓同然の扱いを受けた。
ある時、私塾通いから戻る郷士の子供らと、上士の子供らが道端で行き違おうとしていた。野駆けの帰りらしく、馬上のまま上士の息子らは行き過ぎようとし、郷士の子は避けようとした。だが、上士の息子はそれを咎めた。膝まづいて馬が行き過ぎるのを待てと言っている。まるで殿様の駕籠に出くわしたかのような振る舞いをせよというのである。
おようは呆れた。上士とはいえ、たかだか藩士の子ではないか。郷士だからといって、何ゆえにそこまでせねばならないのか。
だが、郷士の子は屈辱に耐えながら言われるままに従った。馬が行った後、おようは駆け出して行った。
「あんた、何で土下座なんかするん。舐められたらあかんぜよ」
すると、郷士の子は袴の膝に付いた泥を払いながら、おようを睨んだ。
「ほいたら、おまんはあいつら斬りゆうが?でけもせんのに言うなや、このはちきんが」
そう言って怒りに震える拳を握り締めたまま、おように背を向けて去った。「はちきん」とは、土佐言葉でお転婆、という意味である。
おようは愕然となった。南屋敷に居た頃は、縫箔の着物を持っていた母が今は野良着で土を弄り、「お姫
(ひい)様」と呼ばれていた自分が、その隣で雑草を毟っている。
それはいい。南屋敷で嫡子を産んでもないゆえに肩身の狭い思いをしていた頃よりは、母は生き生きとしている。
しかし、やはり許し難いのは何の理由もなく上士の子らに蔑まれることであった。
そうしておようが八つになった時、義父・隆三が死んだ。
安政元年十一月四日、土佐を襲った大地震の為である。邸は被害が少なかったが、隣家の火事を鎮火しようとして崩れた梁の下敷きになって死んだのであった。
またぞろ、おようの生活は転変した。
当主の居ない箕輪家では、隆三の妹夫婦が継ぐことになり、赤の他人まして隆三との間に子を生していないおようの母は追われた。
一旦は実家に母子ともに出戻ることとなったが、既に用意されていたかのように、次の行く先が決まっていた。
だが、二度目の再嫁先では子供は要らないという。おようは実家に残される事となった。
「けど、うちはようおりまへなんだ」
と、おようはにっこりと紅い唇の端を上げて言った。
斎藤は、真っ直ぐにおようの顔を見た。
おようは家出をして二度と城下にも土佐にも戻らなかった。自らを女衒に売って、京へ出た。
「何でかわからはりますか?」
斎藤は目を瞬いた。
「島原で太夫になろう思いましてん。只の芸妓やおへん。打掛の紅色は禁色。公家はんもお大名はんも頭下げてくれはりますわ。郷士も上士もあらしまへん」
そう言ったおようの顔は、まさに桔梗屋の押しも押されもせぬ相生太夫の顔である。八つで禿
(かむろ)になったのは遅いにしても、天稟というべきか信念の成せる業か、半夜
(はんや)、鹿恋
(かこい)ととんとんに上がり、十七で太夫になった出世の早さである。
しかし、それには芸事に秀でたのみならない運があった。先輩太夫の引きが必要である。おようは引きに恵まれた。おようより十ほど年上の夕霧太夫という芸妓が、可愛がってくれ、お蔭で太夫上がり出来たのだともいえた。吉栄はその点、運がないのであろうか。
「皆まで言わいでもおわかりどっしゃろけど、郷士の百姓のと足蹴にするような藩のお殿様のお座敷に上る気にはなれまへんのや」
おようは凛とした口説で、斎藤に諭した。それでも斎藤は何処か得心の行かない部分を抱きつつ、黙って酌を受けた。
「ね。お話しましたやろ。せやから帰らんといておくれやす」
おようは艶めいた目付きで、斎藤を見据えた。斎藤に断る理由など端からない。
明け方、雨足が遠退いた。
おようは素足に利休下駄をつっかけて玄関を出た。
斎藤は調錬があるといって、暗いうちから屯所へ戻って行った。幹部等の寓居する八木邸、前川邸ではなく南部家に一人離れているので何も咎められることはないが、こと隊務に関しては生真面目である。
おようは細く入り組んだ露地に出て、築塀の下に番傘が開いたまま置かれているのを見付けた。
傘のうちには泥と雨に濡れた柴犬の親子が蹲っていた。
「なくしたかて、下手な嘘言うお人やなァ」
おようは、誰も見ていないのに笑った。
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