(四) 花咲稲荷

 仏光寺の南手、高辻通と松原通の間に花咲稲荷がある。丁度、おようの別宅がある寺町通西から六本目の筋向いに鳥居が見える。
 約束の四つ下刻におようが出向くと、既にお圭は鳥居の下に佇んでいた。大店の女房らしい丸髷に萌黄の単衣という若々しいなりだが、三十路も近い。
「忙しないとこ悪うおすな」
 おようの顔を見るなり、お圭は言った。鉄漿(かね)をひいた歯が形のよい唇から見えた。
「いいえ。気いつこうて貰うてんのはうちのほうですよって、お姉さん」
 といっても実の姉妹ではない。太物問屋・天城屋の御内儀であるお圭は、三年前まで島原・桔梗屋の夕霧太夫であった。上長者町筋にある老舗、天城屋善兵衛に見請けされ、島原を出てからこうして度々、可愛がっていたおように会う。
「お店のほうはお忙しいんちゃいますやろか」
「今時分はそうでもあらへんよ」
 お圭は優美に首を振る。京の商人が忙しいのは盆暮れの掛取りの時期である。そういう時、大店の女房は四方八方飛び回る。お圭は掛取りの巧さで天城屋を盛り立てていた。大名屋敷の掛取りに行くと、昔馴染みの島原の客が雁首揃えているのである。
 かつての傾城の色香は他人の女房になってまた違った凄味を増しているうえ、宴席での埒も無い姿を知られていると思うと、侍たちは無碍に出来ないのである。
 五百両はたいてお圭を身請けした善兵衛は、やはり商才のある男なのだと世間は評価する。
 おようとお圭は三間ほど西へ歩いて甘味処に腰を下ろした。太夫は午刻(ひるどき)も稽古事などで時間がなく、大店の女房もそう長い間店を留守にしているわけにはいかない。
 打ち水のむっとした蒸気も消え失せ、土の臭いが露地に満ちていた。お圭は冷やしぜんざいを口にしつつ、切り出した。
「あんなあ。近頃、商家に押し借りが増えとんの知っとおる?」
 ここ一、二年の間に京の町に攘夷浪人と称する無頼漢が溢れ返り、義挙の為と言って店に押し入り、無理から借金をしていく。
 借金といってもその金は二度と戻っては来ないが、洛中でも大坂あたりでも、この事は公然の事実となっていた。それゆえ、彼等浪士を取り締まる役目として、壬生浪士組が市中を見廻っている。所司代や奉行所の手の者たちでは太刀打出来ない荒くれが多いということである。
 ところが。おかしな事に、浪士達を取り締まる側が、今度は押し借りを始めたというのだ。
「うっとこにもみぶろが来ましてん」
 お圭は眉を顰めた。おようの心臓が、とくんと早鐘を打った。
 浅葱色の隊服を羽織った四、五人がやって来たという。芹沢鴨という大柄な男がその中心にいた、とお圭は言った。おようは角屋で何度か芹沢を見知っている。座敷にも出た事がある。だが、既に島原を遠退いたお圭は知らない。
 芹沢のほうも、天城屋の内儀がもと島原傾城であったことなど知る由もなかった。京詰の侍たちなら血相変えてお圭に金を返すところだが、芹沢は違った。値踏みするような好色な目付きでお圭を見定め、押し出しの強さに物を言わせて五十両をもぎ取って行った。決して少ない金ではない。お圭の苦労して集めた金が、猫が秋刀魚でもくわえていくように掻っ攫われたのである。
「難儀どしたな」
 おようは言葉に困(こう)じて、そう言うしかなかった。無論、お圭の言わんとする事は予想がついた。しかし、答えようがない。
「けど、お姉さん。うちにはどないしょうもないえ」
「それはわかってますのや」
 お圭は遠くを見るように視線を背けた。おようは夏の陽に鈍く照らされるお圭の横顔を見詰め、「そういえばあの時の夕霧姉さんも同じ顔をしてはった」と、思った。
 金屏風の前に座り、鏡を見入る大打掛の太夫が、脇から頭を下げて坐ったおようを見た。
「あんなあ、およう」
 夕霧太夫は実名で呼んだ。置屋の中では天神としか呼ばないのが普通だが。
「わて落籍(ひか)れますんや、この年の瀬に。せで、お母さんもあんたを太夫上がりさせる言うたはる。どないやろ?」
 夕霧太夫は優美に引かれた紅を確かめるように、鏡を傾けた。
「それはおめでとうさんにございます。けど、うちに太夫がでけますやろか」
 おようは本心を言った。禿からまだ十年も経たず天神になったとはいえ、おようには芸事の不安があった。舞にしろ謡(うたい)にしろ、他に幾らも上手の天神はいる。確かに夕霧は禿の頃からおようをずっと可愛がってくれていたが、夕霧太夫の後を背負えるほどの自信はなかった。
「けして早うはないで。あんたもじき十八になる。それに」
 言い掛けて、夕霧太夫は鏡を屏風のほうへ押し遣り、おようの前に向き直った。桔梗屋は勿論、数多ある置屋の芸妓の中でも一際目立ってすらりと背の高いおようと並ぶと、夕霧のほうがまるで年下のようでもある。
「あんたでのうては、このわての跡目は継げしまへん」
 切羽詰った表情で言われ、おようは膝の上で握った両手を強張らせた。
 この時、夕霧太夫に言われた言葉はのちのち重い事実としておように圧し掛かってきたものだ。
 金看板をおように譲る。その代わり、或る密命を継いで欲しいのだ、と夕霧太夫は付け加えた。
「島原いう所は太閤はん以来の格式ある遊郭や。ここではどないな男はんも、礼を尽くしてわてらを待ってはる。奴(やっこ)やろうが国持ちの大大名はんやろうが皆同じお客様。勤皇も佐幕も関係あらしまへん。いろんなお人が出入りしやる」
 へえ、とおようは訳のわからないまま相槌を打った。夕霧は俯いたおようの双眸を覗き込むようにして、見据えた。
「わてらは宴会の席でお客様のいろいろな話を聞く。政事やお店の勘定やら同僚の噂話や悪評や。けど、そないな話は皆廓の中の放言や。別世界やから口にしはるんや。ひとたびこの大門の外へ出たら、よう話さへん」
 それが男の息抜きなのであろう、とおようは思っていた。妓たちは他言などしない。女房のように口煩くもない。
「その様々なお話を売るのんや」
「はあ」
「早い話が密偵や」
 と、夕霧太夫はおようの耳元で囁いた。
 御公儀の為に遊郭の中で見聞きした話、人間関係、噂など逐一報告する役目があるのだという。それを女徒士(おんなかち)とも隠密とも呼ぶらしい。夕霧太夫は、太夫上がりしてから十年というもの、その御役目を勤めてきたのであった。無論、それも先代から継いだものである。
「桔梗屋にもお母はんお父はんにも関係あらへん。何や知らん、わてらがじきじきに幕府から仰せつかっとる御役目やそうや。多少やけど給金も下りるわ」
 夕霧は淡々と言った。おようにはまだ突拍子もない事のように思えた。目の前の夕霧太夫とは禿の頃から寝食を共にし、芸事を学んできたが、公儀隠密だなどと微塵もそのような素振りはなかった。
 そらでか夕霧は優れた密偵なのかもしれなかった。
「いやなら他の子を探す。けど、あんたように頭のええ子は今まで会うたことない。わてはそれこそ薄氷を踏むような思いで十年やってきたけど、あんたやったら任せられる思うてずっと見とったんや」
 その横顔が、今もおようの瞼に焼き付いている。
 太夫上がりして三年。おようにも段々と判ってきたことがあった。
 月に一度、幕府の隠密が逢状を出しに来る。
 それはあからさまに何処かの藩士を名乗ることもあれば、遠国の大店の主人であったり様々である。数人が数ヶ月に一度という按配でおようを呼び、これまでの報告をさせられる。或いはあちらから江戸の様子などきかされ、京詰の人間の動向を照らし合わせたり、それとなく探りを入れるよう示唆される。このところ幕府の動きは活発であった。むしろ、大多数の藩が京に用事などなかった数年前に比べ、政治活動は著しく上方が忙しい。
 そして、手当ても少なくない。
 おようは夕霧太夫を身請けしたのは、夕霧自身ではなかったかと思った。
 天城屋の身代にしては五百両はやはり大金である。十年もこの御役目を勤めていれば、五百両に余りある手当てが支払われるのであるから。
 おようは、お圭に戻った夕霧が何を言いたいのか覚っていた。
「うちらから御公儀には物は言われしまへんえ、お姉さん」
 お圭はその言葉に何度も頷いた。
「正直言うて、もっと困っとうお店もようさんあるわ。世知辛い世の中や。お武家はんは皆、見栄ばっかり張って盆暮れ払いでえろうつけ買い。景気悪うて此の頃やったら全部やのうて内金払いが関の山や。ごてくさ言うたら無礼討ちにされるかわからんし」
 重ねて浪士や芹沢らの強盗まがいの借金ときては、泣くに泣かれぬ。おようはお圭のあでな容色の下に澱む苦境を垣間見て、胸が塞いだ。
 お圭は小鼻を鳴らし、目元を押えると急に華やいだ顔に戻った。
「すまんな、妙なこと言うてしもうて。忘れとくりゃす、今言うたことは。それよりあんた、江戸におるいうお父はんの事わかったんかいな?」
 いいえ、とおようは肩を竦めた。ほうか、とお圭は残りのぜんざいを掻っ込んだ。
 甘味処を出て西洞院川まで差し掛かると、お圭は矢庭に言った。
「あんた、ええ人出来たんちゃう?」
 え、とおようは目を丸くした。島原傾城がまるで童女のようにあどけなくなった。
「いややわお姉さん。うちは男はんには本気にならしまへん。お父はんみたいに、出世の為やったら女子のことなんか秋の扇ように捨ててしまう人ばっかりや」
 笑いながら、おようの頭に斎藤の姿が浮かんだ。
 やがて、道行く人がさっと両脇に寄る。浅葱色にだんだら模様の揃い羽織で浪士組の一団がやってくる。油小路通を五条天神のほうへ折れてくる巡察の数名であった。
「おおこわ、みぶろやで。みぶろが来たで」
 聞こえよがしに人々が言う。しかし、当人達は全く意に介せず人垣の中を堂々と闊歩していた。
 おようもお圭も立ち止まり、男達が行き過ぎるのを待った。ふと、おようは横目でお圭の顔を見た。目間(まなかい)をきつく寄せ、思い詰めたような顔付きで遠く浅葱色の男達を見送るお圭の姿は、お店に人生を懸けた京女の姿そのものであった。
 そんなお圭に、己の想う男もあれと同じ羽織を着ているのだとは言えなかった。

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