(五) 大和屋
お座敷に出ていたおようは、大門の外の只ならぬ騒ぎに気付いた。客はぞわぞわと窓まで詰め寄って、北の空を見詰めていた。
「たいへんや、火事や」
その声に、禿も気がそぞろになった。客の背後から外を覗こうとする。おようはそれを窘めた。
「ありゃあ葭屋町のあたりかのう。うちの近くかも知れん。こりゃいかん」
と、米問屋の主人は慌てて座敷を出て行った。おようは長いお座敷に倦んでいたので、火事騒ぎは渡りに舟であった。それにしても北の空は赤く輝いている。噂が流れてきたのは桔梗屋に戻った頃であった。
「大和屋がえらい燃えとる」
女将が言った。糸問屋の大和屋といえば、主人の大和屋庄兵衛とお圭の嫁いだ天城屋善兵衛とは親戚筋に当るではないか。
「火付けやて。浪士組がつけよったらしいで」
「嘘やろお母さん」
思わず身を固くした。火消しに駆け付けるというのなら判るが、率先して火付けをするなど強盗以上の悪行ではないか。
「嘘やないで。芹沢はんや。お蔵の屋根に上って鉄扇振り回して暴れとうらしいがな」
単衣物に着替えたおようは、そのまま葭屋町まで走って確かめに行こうと考えた。だが、女将はおようの顔をまじまじと見詰め、
「かかわり合いになったらあかんえ。お金貰うとるお客さんには違いあらしまへんけどな。お座敷以外ではかかわったらあかん」
まるで忌まわしい物のことを口にするようであった。おようは黙って頷いた。芹沢一味の仕業というのなら、斎藤は関わっていないであろう。そうであって欲しい。
あくる日の午後、おようは大和屋の見舞いに出掛けた。店の大部分はほぼ焼け落ちており、僅かに土蔵の二つほどが惨たらしい火影を思わせる焦げ跡を残して建っているのであった。一晩経っても、まだ辺りに熱気が籠もっている。洛中で五指に入ると言われるほどの大店だけあって、こうして黒く焼け焦げた屋敷跡を見ると、いやにだだ広く見えた。
まだ野次馬らがうろうろとしている中を、おようは大和屋一家を探し見た。だが、何処へ逃げたのか近所の者に訊いても杳として知れなかった。庄兵衛の宴会には何度か呼ばれたことがある。それで一言何か言わずにはおれない、とやって来たのだが。
仕方が無いので引き返そうとすると、おようは呼び止められた。お圭であった。
「お姉さん」
言い掛けたおようの言葉を、お圭の溜め息が遮った。
「なんちゅうことを。酷いわ」
おようは黙るしかなかった。お圭の目には大和屋の惨状が近い将来の天城屋に見えているだろうか。押し借りのうえに火を放つ。これの何処が御公儀の為の仕事であるのだろうか、とお圭の呟きは訴えていた。
「芹沢いうお人は座敷に来はるんやろ。あんたあない気違いの逢状だけは貰わんといてや」
へえ、とおようは小さく答えた。だが、お圭の抵抗が如何様にも無駄であることをおようは知っていた。芹沢にそのような女の心配が通用する訳もない。
万寿寺通の宅に斎藤が訪れたのは、八つ前であった。午前の稽古を終えての慌しい逢瀬に、些か疑問を持ったのは斎藤のほうである。島原の女に逢うのは日中がもっとも都合よいにしても。
おようは絽の着物を重ねて襟足を大きく抜き、紅を直した。着流し姿のままの斎藤は胡坐を掻いて、おようの背中を見詰めた。
「おれに何か用があったんではないのかい」
おようはふと首を傾げ、鏡の中の自分を見遣りつつ半身だけ捩った。
「大和屋はんの焼打ちのことやけど」
「おれには関わりの無いことだ」
矢継早に返答が戻ってきた。おようは安心半分、苛立ち半分になった。
「せやけど、あれは浪士組の仕業やて誰も知ったはりますよ」
斎藤は黙っていた。焼打ちがあってから十日経つ。翌日には京都守護職、所司代の役人が代わる代わるにやってきて検分をやっていた。しかし、無論この一件を会津中将・松平容保が知らぬ筈は無く、すぐにも芹沢ら三十名の浪士には処罰が下ると思われていたので、誰一人その様子がない。首魁の芹沢は屯所に籠もって出て来ないが、他の隊士はこれまでと何の変わりもなく市中巡邏に出ているという。
尤も、お役目を疎かにしてはならないので、そうさせられているだけなのかもしれない。ここ数日の島原で、壬生浪士組の連中を見かけたことはない。
「大和屋はな、天誅組には金を貸したのに我々には貸さなかった。それで芹沢さんは見せしめの為に火を放ったという」
斎藤は、淡々と言った。
「それにしたって押し借りのうえ火付けやて、あきまへんわ」
おようは斎藤に向き直った。
「何とかなりまへんのか?」
斎藤には答えようがない。芹沢の暴虐どうこうなど言える立場でもない。
「斎藤はんからじきじきに会津様のほうへ言わはったら如何ですのん」
無理を言う、と斎藤は思った。この勝気な女にしては珍しい。斎藤は愕きもさることながら、少し困った。
確かに斎藤は松平容保の直命で浪士組の監視役をしている。
当然、浪士組内部の人間に知られてはならないのだが、斎藤が逐一報告をしなくても芹沢の行動は悪評が先んじて、既に先日の件も翌朝早くに容保の耳に入っている。恐らくこのままでは済むまい、と斎藤自身も思っているのだが、間者という立場上、それ以上の立ち入りは禁物であった。
鳴物入りで京の政治に参加せざるを得なくなった容保の不利になるようならば、その時は有能な家臣団がそれなりの手段を講じるであろう。
「おれごときが執政に口出し出来る訳なかろう」
と、斎藤は低く言い、器用な長い手指で素早く袴を着けた。おようの顔も見ず、そそくさと出て行く。おようはまた長い溜め息を吐いた。
男はやはり男の道理でしか物を量れない。女の自分が義侠をはたらかせ、差出口を言ったことに斎藤は腹を立てたのかもしれない。しかし言わずに居られない己を悔いる気持ちは、おようにはなかった。
「男はんは、ほんに身勝手」
謡のように呟きながら、正月の出来事をふと思い出した。
逢状の筆跡は大胆でいながら繊細な詩人を思わせる達筆であった。もう、土佐の老公の筆跡など見ることはないのかもしれない。何故か斎藤の筆も少し似ている、と思った。
おようは鏡の中の自分を睨んだ。紅の描き方が少し物足りない。
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