あとがき

 「終結した現在」の歴史を現代人の視点ではかってはならない。

 というのは、私が文学を師事していて真っ先に教授されたことである。戦時下で起こったすべての出来事、今なお遺恨を残す問題あるいは未解決の問題は殊更である。「時代がそうささせたんだから仕方ない」という無責任な発言としてではなく、当事者もその後に生まれた人も歴史とは思想とはそうなる流れが何処かにあったという認識を持たねば、真実は見えてこないと思う。
 そういった意識で幕末の武士達を見てみると、現在の我々の及びも付かない様々な側面があることに気付くだろう。たとえば宴席などで謡曲の一つも歌えない武士は教養のレベルが低いという。
 この頃はやはり武士のたしなみとしての文芸は和歌や漢詩であり、謡曲を知っていることが素養であった。俳句や詩吟は富裕な町人の文化である。したがって、鯨海酔侯こと山内容堂が詩才を持ち、音曲に精通しているのは有名であれ、斎藤一にもある程度のの教養があって然るべきと思う。只、その記録がないだけである。
 宴席で何を謡ったかはわからないが「敦盛」くらいは出来たのでは。「人生五十年〜」というやつである。
 ただ、色恋がらみの謡曲には疎かったかも知れない、と思って「花子」を題材にした。容堂の舞った「景清」の意味はひしひしと判る。だがおようこと相生太夫の舞った「花子」の持つ二重の意味に一つは気付き、もう一つは気付かなかった。鳥羽伏見の戦に敗れ、改めて扇を開いて知る。もしかしたら、吉田少将も同じ心地ではなかったかという気がするのである。よんどころない事情で京へなかなか戻れなくなる。待たせている花子に会うことが出来るかどうか。
 だが、恐らく永遠に京を出て行かねばならぬ斎藤の身では既に遅かった。だから、おようも身分違いも兎も角も吉田少将と花子も結局は別れたのではないかと感じた。
 ところで、山内容堂には家督を継いで三条家から正室を迎える前に側女に生ませた男子があった。本文中でも少し触れたが、その子は夭折する。もしかしたら、他にも子供はいたのかもしれないが、容堂が後継者となって南屋敷の女子供は顧みられることはなかった。これも歴史の軋轢が産んだ悲劇といえよう。


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