(十) 叫ぶ服部半蔵

 青々とした畳の上に、袱紗が広げられ、その上に肉色の奇怪な薄皮が二つ置かれていた。
 庭に向かって南面する定敬の正面に服部半蔵と酒井孫八郎。そして、定敬から見て左手に山脇十左衛門、立見鑑三郎、斎藤一が座していた。
「此度の一件まことにもって半蔵正義、御身には不敬かつ数々の御無礼を重ねましたこと、許されるまじきと覚悟のうえ罷り越しました」
 服部は額を畳に擦り付けたまま、酒井も同じ姿勢のまま、定敬の返答を待った。
「とにかく両人とも面を上げよ」
 許されて上げた兄弟の顔は強張っていたが、紛れも無く服部、酒井それぞれの顔であった。
 委細はこうである。
 定敬が江戸城登城を禁ぜられたと同時に、その計画は実行された。
「殿がご謹慎を命ぜられた。いずれそう遠からぬ日に幕閣から次の指示があるに違いない。恐らくそれは、江戸退去であろう」
 服部は案じた。そもそも服部自身は慶喜に倣って恭順の意を示す。これが藩士の無駄死にを食い止め、今後の藩の存続を繋ぐ方法であろうと考えていた。極めて理論的判断をもっていたのである。
 しかし藩内は鳥羽・伏見の戦以来、抗戦するかしないかの二派に分かれたままである。このまま表向き定敬が恭順の姿勢を取ったとしても、周囲がそれを許すまい。とりわけ山脇、町田らといった古参の家臣は主戦派である。さらに江戸には二月に入ってから、抗戦派の若い藩士らが集まってきた。
 藩の意を一つにせねば、これはいずれに傾いたとしても不幸になるに違いない。
「我が意は飽く迄恭順だが、その為に無益の血を流して弾圧するわけにはいかぬ。さりとて元来尊皇のお志高く、薩長らが政権を掌握せんが為に立ち上げた新政府に誰が従うかと仰せられる殿のお心に沿えば、数多の犠牲がでるやもしれぬ」
 服部は悩んだ。病と称してもおかしくないほど、日毎夜毎に悩んだ。
 そして、この一計が編まれた。
 国許の異母弟、酒井孫八郎を密かに呼び寄せると、流感を装って中屋敷に引き篭もり、
「我が殿の扮装をして夜な夜な傾城屋に出入せよ」
 と。幸いにも彼等は年恰好も身の丈もほぼ似ている。そこで変装の為に使用したのが、今定敬の目前に披露されている肉面であった。
「どういったご主旨ですか、兄上」
 さしもの酒井も訝って仔細を訊ねた。すると服部は、
「風評を利用するのだ。殿はご謹慎を命ぜられておる。その腹いせに、深川で夜毎金子をばら撒いての遊興三昧。表向きは大店の若旦那ということにしておくが、やがて誰かがあの御方は松平越中守様であると言い出す。さればあっという間に幕閣の耳に入ろう」
「謹慎の上にさらにそのような事を思わせることに如何なる意義が?」
「金子をばら撒けば、桑名藩は軍備を補強する気が失せた、会津に見方すると思われぬだろう。越中守様は戦に負けて腑抜けになったと世間を謀るのだ」
「しかし、殿を謀る事にもなりましょうぞ兄上」
 酒井は、己が定敬の姿に成り変わるということに慄いた。それこそ、この職務に就く前から藩主と仰いできた御方を騙るという大胆不敵な行為である。
「怖気付くな孫八。これは桑名藩が生き延びる為ぞ。私利私欲で言うておるのではない。我々は朝廷の為幕府の為と言われてこれまでさんざん辛酸を舐め、煮え湯を飲まされて来たであろう。そなたも無血開城の苦渋を味おうたではないか」
 服部は叱咤した。酒井は服部の言うよう、開城の当事者であったが、その想いは異母兄と同じで血涙を絞るが如くであった。
「世間を謀り、些か卑怯とはいえ山脇殿や町田殿を殿より遠ざけ、戦に巻き込まぬように仕向ける」

 定敬は己の顔を模った肉面を手に取り、「成る程よう出来ておるな」と、感心した。
 服部は、その間も冷静な面持ちであった。
「さりながら孫八、そちの声色は余にそっくりだったがどういう仕掛けなのだ?」
 定敬が問う。酒井は緊張した面持ちでは、と頭を少し上げ、
「訓練によるものでございます。服部家には声態を模写するという技が伝わっております。幼少の砌、父より兄半蔵ともども手解きを受けてございます」
 初耳だな、と定敬は驚いた。
「やはり初代半蔵の頃より伝わる忍術か?」
 服部は少し躊躇いがちに、
「斯様な技は殿も御存知、我等の手下、乱波(らっぱ)、素波(すっぱ)の如き下忍が常時間諜の際用うべきもので、我々は普段忍術の類は一切用いませぬ。ただ、此度の件に御身の御声を模倣いたしましたこと、平に謝罪たてまつりまする」
 謝罪は今はよい、と定敬は言った。
「今ひとつ。もう一つの肉面は如何にも大久保越中守に似ておるが」
 は、と服部は再び少し頭を上げた。
「其方に居られます斎藤殿がそれがしを警固に参られた折、用いました」
 斎藤は愕然とした。ではやはり寝所にいたのは、大久保そっくりの肉面を被った服部だったのではないか。声色も変わっており、身のこなしさえ病人とは思えぬ敏捷さであったが。
 あの時、服部は内心焦りを抱いていた。その前々夜、中屋敷にこっそり戻って来た酒井扮する美濃屋新右衛門は、斎藤に出くわしていたのだ。山脇は『千鳥屋』の座敷で見かけたに過ぎないが、それよりも厄介な男に見付かったのであった。
「危うく肉面を引き破られそうになり、冷や汗を掻きました。新選組の斎藤という男です。大川に飛び込んで難を逃れたものの、上ったら今度はそのうえ、御庭番らしい小姓のような若侍に咎められるわで、難儀しました」
 それから、酒井は疲れもあってか元来頑健でもないので、熱を出して寝込んでしまった。それで美濃屋の遊びは暫く止んでいたのであった。
 服部は定敬の所司代時代京詰であり、新選組の幹部等とは多少の面識はある。斎藤の印象は薄かったが、組頭に沖田、永倉、斎藤という絶妙の人斬りがいるときいていた。その斎藤である。そうこうしているうちに山脇が何か感付いたらしく、監視役を送り込んで来たと思えば、その男が斎藤であった。
 中屋敷の一角には、本来国許にいる筈の酒井が臥せっている。そのことが斎藤に露見してはまずい。しかも、隣室で見張られているとなると、服部自身全く身動きが取れない。
 そこで予期せぬ芝居をもう一幕打つ羽目になってしまったのであった。
「と申すは服部、そちらは予め大久保殿の肉面を用意しておいたということのようだが、何故だ?」
 定敬は鋭く指摘した。
 それは、と服部は言い澱んだ。唇を噛み締め、肩を震わせている。誰もが不穏な目で若き家老の苦悶の表情に注目した。
「大久保殿の御面を拝借しましたのは、それがし出過ぎた事畏れ多い事とは思いながらも殿にご進言いたそうと考えておりました」
 服部の思い掛けない告白に、酒井すらも虚を突かれて息を呑んだ。実の弟もその意図を知らなかったのである。定敬はしばし沈黙していたが、ややあって穏やかに眉を顰めた。
「そちは余にどのような事を申したかったのか?」
 すると服部は、再び頭を深く下げた。
「御前様には江戸をお離れになり、遠隔の地にてご謹慎、政府の御沙汰をお待ち下さいますようにと」
 遠隔の地といっても無闇に僻地を指しているのではない。桑名藩には久松松平家が高田にあった時からの飛び地がある。越後柏崎の六万石の米どころである。其処へ行けというのだ。
「藩内においては斯様に意見も対立しており、それも兎も角肥後守様もご帰国ののち今となっては薩長と刃を交わしたるは御身のみ。血気逸る輩どもに取り巻かれ、御身の危うきに晒されること、この半蔵何より憂えておりまする」
 服部は震える声で叫んだ。山脇もはじめて、この平生は落ち着き払った可愛気のない秀才の感情の籠もった声を聞いた。
 だが、定敬は
「痴れ者ッ」
 障子紙が震えんばかりに一喝した。
「そちの申す事は一々御尤も。大久保殿の肉面を勝手に作り上げたるは先方に失敬なれど、心意気は理解した。だが――」
 定敬は膝を崩して胡坐になった。
「見くびって貰っては困るのう、この松平越中守を」
 服部は恐る恐る額を浮かせた。
「余が他の何者かに心を動かされ、己が真意を枉げることなど今迄一度も無かった。否、大坂の事は悔いておる。みすみすこうなる事が判っていながら、上様の命であるとして随ってしまった。余の人生最大の落度」
 定敬は脇息に肘をつき、大きく息を吐いた。
「それ故に服部が憂え、此度のはかりごとを行うたのも致し方ないと思うておる。総ては余の不徳の致す所より出た騒動であろうな」
 山脇は言葉も無く、我が殿の寛大な御心にうち震えた。この期に及んでも、服部らを責めたてるところが一つもないとは。
「だが尚の事、大坂にての不明あらばこそ余は今後一切如何なる圧力にも屈しよとうはない、と己が心に誓うた」
 徳川への恩義をかけて戦う。
 定敬は鳥羽・伏見以来の懸案に対する答えを、明らかにした。兄・容保に追従する或いは親藩としての立場からではなく、定敬個人の言葉としてである。
「よいな山脇、服部、酒井そして立見。これが余の方針だ」
 四名の藩士が平伏するのにつれて、斎藤も思わず頭を低くした。定敬は爽やかに笑んだ。
「これにて手打ちにいたす」

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