(二) 憂う松平定敬

 夏には牡丹の彩りが華麗な中庭の見える奥書院に、松平定敬は座していた。
 書見台をうち眺める姿も物憂く、脇息に肘を乗せて寄り掛かる。油も付けぬ総髪はつやつやと黒く光っているが、若々しい面長の顔立ちにはひとかたならぬ疲労が伺えた。
 先代桑名藩主から引き継いだ京都警固に就任の折、颯爽と馬上から京洛の街並みを見渡した炯炯たる強い眼差しもそのままに、京都所司代に任命された。少年期を過ぎて凛々しさを増した姿に、余所者を嫌う京雀らも俄かに注目し、ときめいたものだ。弱冠十八歳の所司代様はかかる怜悧なお人と。
 定敬は山脇が現れるや、若やいだ笑みを取り戻した。
「十左か。よう来た」
 定敬は万延元年、江戸高須屋敷より桑名藩へ婿養子として迎えられてからおよそ十年。当初から、十左と呼んで山脇を重用した。
 山脇は許されて、遠慮なく定敬の膝元まで進んだ。
「成る程、こうやって穏やかなお顔を見ていると、何しろ御血筋も名門中の名門ゆえ、まあ遊女の言う惚れ惚れするよないい男かも知れん」
 と、山脇は家臣の贔屓目に思ってしまうのだった。
 書見台の脇には、軸が置かれていた。
 大和仕立ての表具に施された金泥紙本の懐紙に流麗な筆致が見えた。山脇は思わずはっとなった。所司代屋敷の床の間に飾られていた近衛前関白の和歌である。
 
  桑名中将定敬が所司代の任にありて忠勤のこころことに浅からぬを感じ侍りて
                                前関白近衛忠熈(ただひろ)

      君がためこころをみがく玉じきの 宮このうちの守りただしき

 つい半月前、この屈託無い若い笑顔が二度と藩主に戻る事は無いのではなかろうか、と山脇は危惧した。
 築地の藩邸で山脇ら数名の藩士と邂逅した定敬は、一同を呼集し、顔を見渡すなり、がばとひれ伏した。
「今更何を言うても、後付の言訳に過ぎぬことはじゅうじゅう承知。なれど、大坂よりの出船は俄かの事であり、そのほう一同へ対して申し開きも一切せず、余はまことに不届千万。何とぞ赦して欲しい」
 一同は愕然となった。藩主に頭を下げられることなど、生まれて初めてである。
「殿ッ、面をお上げくださいませ」
 と、山脇は手を突き出したものの、成す術もなくおろおろとしてしまった。
「大樹公の仰せなれば致し方ありませぬ。我々一同承知つかまつっておりまする」
「とは申せ」
 定敬は大粒の涙を両眼に浮かべたまま、顔を上げた。
「殿軍という御役目を仰せつかった我が藩の大将とあろう者が、真っ先に戦線離脱とは万死に値する醜態ぞ。先程赦せと言うた、この口さえもおとましい」
 血を吐くような憤りであった。理知的で闊達そのものの若い藩主が、このように取り乱すとは。
 定敬の顔を隈取る伸び放題の青い髭も凄絶であり、対面する藩士誰一人として涙滂沱せざるはなかった。
 定敬は遠い目になった。僅かばかり前の出来事を思えば、気が滅入る。
 前年師走十三日。
 大政奉還を受けて所司代解任となり、すったもんだの挙句に急ぎ慶喜らとともに大坂へ向かった時、最早昼か夜かも覚えていなかった。
 兄・容保は元来蒲柳の質だが、頑強なのが取柄と思っていた定敬自身もさすがに疲労困憊していた。蒼白な顔色の兄に付き添って大坂に入城した時、定敬は殆ど眠っていない。
 その時は、戦支度をするばかりと思っていた。
 ところが英国、仏国公使に引見した慶喜に抗戦の気配は窺えない。結局、京をのっとった薩長方がどう出るか見計らっていたには違いないが、暮れも押し迫った頃、事態を一変させる出来事が大坂城に知らされた。
 火の粉は江戸で付いた。府内を荒らしまくる薩摩浪人に対する腹いせで三田の薩摩藩邸を、庄内藩兵らが焼打ちしたのだ。
 その火が京坂に引火したことは言うまでも無い。
 正月一日より、定敬は覚悟を決めて城内の藩士を呼び寄せた。最早、武力衝突は避けられぬ。そうして、鳥羽・伏見の戦が勃発した。
 しかし、旧幕府軍の形勢は頗る悪かった。三日から吹き荒れた雪混じりの東山おろしが、幕軍の行く手を阻んだ。さらに、錦旗が翻ったことにより、士気は殺がれてしまったのだ。
 定敬ら含め幕臣は、正月五日朝に慶喜に鼓舞されて、何の為に此処まで退いてきたのかと思う疑心暗鬼を払拭した。が、それも翌夕にはますます難色を極める。
 ああでもないこうでもないと喧々囂々の軍議を行うも、どうも諸藩の主はやる気が無い。飽く迄主戦派の容保と定敬は、表向きは兎も角次第に心中の孤立を深め、苛立つばかりであった。何かの弾みで、
「難攻不落の大坂城を枕にして討死の覚悟ぞ」
 と、言った。若い定敬が血気にはやっているだけだと思われたのか、容保を除く誰もが胡乱げな顔を見合わせる。
 定敬自身も、言ってから憮然となった。大坂城はこれまで一度も勝利した事が無い。大坂の陣では濠まで埋められて陥ちている。しかも城攻めしたのは他でもない東照神君ではないか。
「越中、それは少々縁起が悪かろう」
 慶喜はやんわりと諭した。
「かくなる気概にございます。薩長の奴輩、元凶を関ヶ原の戦に問わしむるなら、今は徳川(とくせん)の所有とはいえ太閤の築いたこの城、燃やして見せしめにいたしましょう」
 定敬は切り返した。慶喜も諸侯も、これには瞠目した。しかし、あまりに過激な意見にその後反駁もなければ同意もなく、議題は流れた。
 思えばこの時の定敬の奇妙な機転から出た言葉が、大坂脱出の決意を慶喜に急がせたのやもしれなかった。「放って置けば、越中守は薩賊打倒に意気込む全軍に担ぎ上げられかねない」と。兎に角、慶喜はこれ以上、上方を灰燼化する気はなかった。大坂城を燃やすなど言語道断である。
 かくて定敬は、就寝しようかという時に兄とともに城の庭手に連れ出された。その時は脳天気に「散歩か」と訝ったものだが、城を出てしまおうとするので何処へ行くのかと聞くと、
「よいか肥後、越中。余はこれから天保山沖に向かう。供を願いたい」
 長い軍議で疲れ果て、漸く落ち着いたところを無理矢理引率されたのである。何事かも知らされないままである。既に身一つのまま軍艦開陽丸に乗り込んでから、会桑両藩主は後戻り出来ぬ状態にあることに気付いた。
「よもや江戸へお戻りか」
 と、容保は喘ぎつつ問い縋った。慶喜はつとめて冷静に頷いた。
「然様。ただちに江戸城へ帰還し、関東での体勢を立て直し迎撃する。幕府海軍を以ってすれば、薩長何するものぞ。士気高揚と警固も兼ねて両人に同行して貰いたいのだ」
 兄弟は呆然と顔を見合わせた。少なからぬ疑心が定敬の中に芽吹く。
 否、危急のこととはいえ、大軍を置いて己らのみ勝手に東帰し、体勢を立て直すとは些か虫のいい話ではなかろうか。
 しかし、上様に叛くわけにはいかず、異議を唱えるに己の説得力は無い。
 それよりも、言葉さえ失っている兄・容保の身が思い遣られた。
 互いに口にこそ出さねど、「首尾よく謀られたようだ」という己に対する欺瞞と、もしかしたら上様は真に建て直しを考えておられるのか、という一縷の望みの板挟みに耐えているに違いなかった。同道した板倉勝静らとも話し合ったが、結局慶喜の本意は図り難かった。
 十一日、品川沖に到着。強風の為、翌日江戸城西の丸に入り、城内紛糾の様相と相成った。
 結局、慶喜は抗戦などする気もなくあっさり手の平を返したのだったが、定敬も容保も恭順撤回を申し上げたものの、受け入れられず、のちは只黙っているしかなかった。
 二十八日には桑名開城となり、先代・定猷(さだみち)の遺子である万之助を立てて恭順の下りとなった。そうして二月早々、山脇らが江戸に到着した時、藩主自ら頭を下げるという異例の謁見をしたのである。

 一応表向きは、定敬は恭順という形を取ったことになる。その事で、山脇や町田老之丞ら主戦派の藩士は騒然となった。開城のことすら納得行かないのであるから、当然といえば当然であった。
 二月十日、定敬が兄・容保とともに登城禁止を申し渡される。江戸城にて大坂脱走の言い訳に困窮した慶喜は、ついに「今日の情勢に至ったは、ひたすら会桑の所為である」と口走る。
 愕然とする容保、定敬兄弟に対しては、
「両人を取り残して余が出立いたしては、必ずや主戦派の者どもが担ぎ上げ、大坂にて多大の犠牲を払うことは目に見えている。火急のことゆえ連れ出した。ゆるせ」
 と、けろりとして言った。ゆるせ、はつまりそういう事だ、くらいの意味なのだろう。
 流血は御免蒙りたいと言われてしまえば、それまでであった。江戸で迎撃というのは方便に過ぎない。それが証拠に、正月十五日には最強硬なる主戦派の小栗上野介忠順が「お直の罷免」という最も重い処罰を言い渡され、後釜に恭順派の勝海舟が座り込んだ。勘定方の大久保一翁と肩を並べて、殆ど数日も経たぬうちに幕府は恭順一色に染まっていった。
 いわば定敬にしても容保にしても「いつまでも頑固に戦を進めようとするならば、城へ入るな。勝手にするがいい」という絶縁状を叩き付けられたも同然であった。
 そうして慶喜自身は、上野の東叡山寛永寺に引き篭もってしまったのである。
「兄上には如何なされましょうか?」
 定敬は落ち着いた声で言った。下城し、会津藩上屋敷にての兄弟の会話である。
「謹慎を命ぜられた以上、一旦は従うほかないであろう」
 既にこの時、仙台藩に向けて、会津追討を受諾せよとの通達を持った使者が出発していた。無論、公には取り沙汰されていないが、その事は予測も出来、かつ会津藩の密偵が常に情報をもたらしていたので、兄弟には既知の出来事であった。
 容保は深く嘆息した。げっそりと頬は削げている。京を出てからひと月程、満足に睡眠を取ったためしがないのではないか、と定敬は思った。
「会津に還る」
 ぽつりと言った。定敬は頷いた。
「兄上。私はむしろ登城禁止を申し渡されて、決心が着いております」
 慶喜が会桑の両藩主を手放しにしたことはつまり、好きにしてよいと解釈していいのである。しかも慶喜は、はっきりと会桑を謀って江戸へ連れ帰ったと口にした。これを逆手に利用しないのは勿体無い、と定敬は考えたのであった。飽く迄この辺り前向きな男である。
 容保は眩しそうに目を細めて、強い眼差しの弟を見詰めた。
「そなたも余と同じ考えであるな」
 静かに、だが内に秘めたる闘志を含んだ声で容保は言った。
「己が殉ずるべきは徳川慶喜にではない。幕府でもない。徳川家そのものにである」
 と、兄弟は目を見交わして誓った。
 定敬は、兄の一見温厚だが頑固な性格が好もしい。そして、丁度四年前に所司代の御役を進んで仰せつかった時も、不器用で真っ直ぐな兄を援けることに吝かではない気持ちからであった。
 会津藩では、既に公用方の神保修理が幽閉されていた。神保は長崎海軍伝習所時代に親交を結んだ勝安房守と密かに通じ、慶喜に東帰を勧めたとの嫌疑がかかっていた。そのことでむしろ会津藩内では、容保の追及よりも神保の処刑で沸騰していたのである。
 かくて神保は十三日、万事窮すままに自刃してしまう。東帰をめぐる謎はまた一つ闇へと潜り込んで行った。
 とまれ、容保は家督を養子・喜徳(のぶのり)に譲って会津へ帰国と相成った。
 定敬といえば、開城した桑名には既に万之助が擁立されているし、兄に従って会津に行く事はこれは明らかに叛旗を翻したと見做されるのでまずい。
 仕方なく我が身を持て余しつつ、霊巌寺で過すことにした。
「いずれにしても開城しておらぬ会津へは、仙台に限らず何処からかの討伐が訪れるであろう。その時はそなたを頼るやもしれぬが、よいか」
 と言う容保に、
「兄上とともに京を死地と決めた以上、京が会津になろうと蝦夷になろうと何の変節もございませぬ」
 定敬は兄を見送りつつ、颯として答えたのであった。
 経過は如何にせよ大坂から逃げ帰った、そのことが常に兄弟を苦しめていた。今後は奸賊討ち果たすまでは背を向けぬ。既に徹底抗戦に燃える心を抑えつつ。
 山脇十左衛門は、この美々しい兄弟の姿を見て涕泣した。然るに、その我が殿が深川女郎屋で派手に遊興しているとは一体どういう事か。
「しかじかという噂が、千鳥屋とその界隈に沸き立っておりまするが、まことにお伺いするも憚りながら、御身は御存知であられましたでしょうか?」

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