(六) 惑う服部半蔵
斎藤は、あれから千鳥屋を出ると、美濃屋新右衛門の後を追った。
もとより京にいた頃から間諜の如き業は得手である。新右衛門に気取られぬように歩いた。
だが、しとしと歩いて富岡八幡宮に差し掛かった頃、不意に新右衛門が振り返った。
「あんた傾城屋にいたな。あの爺ィと一緒に」
齢四十八歳の山脇のことであろう。
「そこもとが美濃屋の主がどうか、確かめたく」
と、斎藤は勿体ぶった口調で言った。
深川の茶屋まで遊びに来る商家の旦那衆は、殆どが猪牙舟
(ちょきぶね)でやって来て、やはり同じ様に運河を舟で帰る。だが、大店の若旦那という割には供の者もおらず、只一人で提灯提げて帰っていくというのは、珍妙と言えば珍妙である。
「あんたに確かめられる筋合いなどないよ」
新右衛門は、薄笑いを浮かべた。斎藤は些かむっとした。だが、新右衛門の顔はまるっきり松平定敬の顔である。悪感情を抱けば己が欺瞞に陥るようであった。何といっても斎藤が主君、松平容保の弟君と同じなのであるからして。
「面妖だが、その先はすぐ、松平越中守様の中屋敷がござる。そして更に先は大川(隅田川)しかないのだが」
斎藤は言った。言ったがはやいか抜刀した。抜き打ちに新右衛門の胴を払う。
だが、斎藤の佩刀、鬼神丸国重は鈍い金音の手ごたえのみ受け止めただけであった。
にやり、と斎藤の唇が三日月に割れる。目前に短刀を逆手に構えた新右衛門の姿があった。しばし、凝然と向かい合った両者だったが、斎藤のほうから口を開いた。
「新選組四天王・斎藤一の剣を受けるとは、そこもと只の町人ではない」
新右衛門はさすがに瞠目していた。だが、その構えに寸分の隙も無いことを、斎藤は知っていた。
「その松平越中守様に瓜二つの面相も作り物であろう。何しに以って彼のご尊顔を被り、女子遊びに耽る。薩長奴かはたまた幕臣中の恭順派のさしがねか?」
斎藤の詰難にも答えない。只、短刀を構えたままである。
「松平家の御身をからこうことは、つまり幕府を嘲弄するということであるぞ」
すると、新右衛門は横摺りに足を擦って、斎藤の強い視線を交わし、駆け出した。
負けじと一瞬遅れて斎藤も地を蹴った。新右衛門に組み付いて、引き倒そうとするものの、思いのほか力強く、羽交締めにすることも出来ない。懐を掴んで顔に手を伸ばす。
「面の皮を剥いでやろう」
だが已むぬる哉、斎藤の右手は新右衛門の顎には届いたが、それを引っ掻いただけに終
(つい)えた。新右衛門は、そのままするりと羽織を脱いで逃げた。後には提灯の燃え滓と黒羽織のみ。ややあって、人が身投げでもするような大きな水音が斎藤の耳に届いた。
「――して、まことの御身であられたかあられなんだか?」
山脇は神妙な面持ちの斎藤に膝でにじり寄る。斎藤は、やや伏目勝ちに、
「結論から申し上げますと、判りませぬ」
山脇と町田は、同時に嘆息を吐いた。
「さりながら、それがしの右手の爪には貴奴の皮が食い込んでおります。もし顎に傷ある男がいれば、その者こそ越中守様の御顔になりすました憎き奴輩でしょうな」
「成る程」
「今ひとつ奇怪なのは、あの男の咄嗟の腕前でした。加減して抜いたものの、見事受け止められました。町人の手習い如きとは思えません」
と、斎藤は畏まって言った。
「ある程度の使い手とみえたか」
「何しろ短刀一本でかわしましたゆえ、暗闇でしたので流儀までは判別つきかねましたが」
山脇は深く頷いた。すると、静かに聞いていた町田が、
「先程、斎藤殿は美濃屋なる男が、深川屋敷のほうへ向かっておると申されたな?」
然様にございます、と斎藤は答えた。水音がしたというのは大川に飛び込んだのであろう。
「深川中屋敷というと――」
山脇は思わず目を見張った。
「服部半蔵」
美濃屋新右衛門という男が、もし深川藩邸に向かっていたならば、つまりそれは服部の手先である可能性が高い。
各藩には独自の隠密が存在する。そして、京都所司代にはさらに、奉行所配下の下っ引や密偵がいた。藩主が直々に隠密を持つこともある。
だが仮に、それらとは別個に今だもって服部家が伊賀衆、甲賀衆らの間諜を統率する力を掌握しているのなら、剣技に優れた刺客を周旋することは容易いであろう。
「服部が刺客を?だが何の為に。何の為にもってして我が殿に瓜二つの顔の男など」
山脇は独り言のように呟いた。
「山脇様。御身は何といっても前の京都所司代にて、昭徳院(徳川家茂)様のご信頼篤くおわしました御方。肥後守様がお国許へ帰去された今、如何様に利用せんとする輩は掃いて捨てる程おりましょうや」
町田は言った。定敬には利用価値がある、というのである。薩長にしろ、幕閣にしろ、定敬が降伏して新政府軍につくと言えば、会津の容保にとっては血を分けた弟の裏切りである。
さらに、会津を説得にかからせるもしくは武力発動も考え得ると桑名藩の戦力は、脅威そのものである
「うぬ。殿のご尊顔を謀って、姦計を巡らようとするか」
「いずれにいたしましても、まず真偽の程を確かめ、事がゆゆしきに至らぬうちに処理せねばなりませぬ」
町田は、山脇の決心を固めようとするかのように言った。
「兎も角、深川中屋敷を改めるに他ありません。とんだ偽者騒ぎとも限りませんゆえ」
山脇は、町田の進言に膝を打ち、斎藤の顔を凝視した。
「斎藤殿。貴殿にも協力願えまいか」
頭ごなしに言われたが、断る理由はなかった。否、断りようもない。たまたま永倉に突き出されたが為に斯様な数奇なことに行き当たってしまったが、これも已む無し。もとより江戸でぶらついていても、実家には帰ることも出来ず次の指示を待機しているだけである。
「承知仕りました」
と、斎藤は引き受けて、退出したのだった。
くだんの深川中屋敷。ここは「海辺新田」と呼ばれる埋立地の一角であった。西には隅田川支流、北に向かえば永代橋が見える。隣接する榊原式部大輔屋敷とその向こうの広大な蜂須賀阿波守屋敷の先には越中島調練場がある。黒船来航以後、急遽海防の為に調練場が設けられ、時折大砲の音がこの隅田川畔の屋敷一帯に殷々とこだまするのである。
松平越中守中屋敷は、下屋敷や長屋も併設していたが、総称・深川中屋敷と呼ばれた。
服部半蔵正義は、離れに臥せっていた。
山脇の面会というので、はじめは辞退しようとしたのだが、そこはさるもの山脇も退かず、「待てと申されるなら幾日なりとも待ちましょうぞ」
と、隣室に座り込もうとするので、已む無く服部は出て来た。
半刻ほど経ってから漸く襖が開いた時、近習に手を取られつつ、ひどく緩慢な所作で服部が客間に現れた。
「病のところ無理強いを申して、まことに申し訳ない」
そう言って服部の顔を見るや、山脇ははっとなった。服部の顔があまりにも憔悴していたからである。もともと面長の顔立ちだが、水分や皮脂を失って枯れたようである。眼窩は窪んで瞼は黒ずみ、頬骨が浮き出ていた。
「連日高熱が続き、朦朧としておりました。足許さえも覚束なく正座いたしかねまするゆえ、御無礼御容赦を」
服部は頭を下げ、寝間着の下の細った脚を組んだ。山脇は病状の酷さを見て、少し気後れがした。中屋敷に来るまでは、「仮病など使うて我々を謀るつもりであろう。服部狐、若さにはやった自惚れをとっちめてやろう」と思っていたのだが。
早速だが、と山脇はおもむろに切り出した。
「昨日、国許より急の報せがござったが、貴殿の弟御つまり酒井殿が流感にて臥せっておられたことは御存知であろうか」
いえ、と服部は軽く咳き込む。山脇はもって回ったような尋問はせず、続けた。
「その酒井殿が忽然と姿を消されたことは初耳にござろうか?」
「なに」と、服部は切れ長の目を大きく見開いた。山脇は己が書状で知った通りのことを伝えた。
すると、服部の顔色は更に蒼褪めて行った。唇など青紫に震えている。
「孫八が狸
(まみ)に化けた。いや、狸が孫八に化けておったと」
「他愛もない。御母堂には失敬ながら、女子の瘴気にござろう。鼬か何かが膳を漁りにやってきおったのを見間違えたものと存ずるが」
山脇は言った。
服部は暫し眩暈でも堪えるかのような顔付きで、額に手を当てていたが、ややあって頷いた。
「して、山脇殿はそれがしに心当たりをお尋ねに来られたと?」
「察しが早うござる。このことはまだ酒井家家中の者と我々一部の者にのみもたらされた内々の秘密にて、城中に知れぬうちに酒井殿の安否を伺いたく」
「成る程」と、服部は肩で大きく息を吐いた。
「だが、孫八が何故に失踪いたしたか。または何処へ行ったかのかは、それがしも全く聞いておりませぬ」
然様か、と山脇はあっさりと応えた。だがさらに、
「まさか、桑名開城の折の遺恨にかあらん、とも案じておるのだが」
そう言って、山脇は渋面を作った。
隣藩からの包囲と領民を慮っての開城も、必ずしも桑名藩士総ての意向ではない。亀山藩に使者を立てて西軍への恭順を申し出た実行者の酒井に対して、恨みを抱く主戦派もいるであろう。殆どは江戸へ向かったが、その残党が国許にいて、酒井をかどわかしたということも考え得る。
「かどわかしなれば、脅迫状の類を寄越してもよさそうなものでありましょう」
服部は、押し殺したような声を発した。喉が木枯らしのように鳴っている。
「藩士の仕業でなければ尚更、或いは薩長の浪士どもなどの手に掛かれば何をするかわからぬ。口にはしとうござらんが、よもやという事態も考えなされい、服部殿」
「あってはならぬことです」
しからば、と山脇は服部を凝視した。
「我等に内々に酒井殿の行方を探索させて頂けまいか?」
服部は即答出来なかった。
「それとも、服部殿お直々の徒士どもをお使いになされるか?」
「……山脇様にお任せいたしましょう」
山脇はその答えを聞くと、「承知」と言った。
「しかと。幸いにも此方には心強い味方が加勢に来てくれたものでな」
は、と服部は訝った。
「新選組にござり。肥後守様の御手をはなれた彼等も府内に屯しておる。彼等の優秀な探索方をもってすれば、酒井殿を見出すことも容易いであろう」
服部は、ややげんなりした顔付きで耳を傾けていた。山脇はまだも揚々と続ける。
「酒井殿がかどわかしに遭ったとなれば、貴殿も危うい。もしもの為に新選組の中から猛者を選って、護衛につけては如何か?」
「お気遣いは有難く頂戴いたしますが」
と、服部はさり気無く遠慮しようとした。しかし、山脇は笑って、
「早速寄越そう。では、失礼つかまつる」
言うだけの事は言って、そそくさと帰って行ったのであった。
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