(七) 笑う大久保一翁
そういうわけで、斎藤一はいま松平越中守中屋敷にいる。
服部半蔵の寝間の隣室である。築地の下屋敷に参じていると、山脇が急ぎ戻ってきて中屋敷に向かうよう告げたのであった。
無理から服部の言質を取った以上、斎藤を派遣して首尾よく見張らせるという、なかなかに段取りの良いやり方であった。さすがにやり手の家老、と斎藤は思った。
「だが何となく、体よく使われているような気がする」
というのが斎藤の実感であはったが。
山脇は立見鑑三郎を呼んで、中屋敷の一隅に忍ばせると、斎藤に言った。立見とは京都時代に面識があるので、斎藤も心安い。
「もし酒井が屋敷に入ってきたらば、立見が顔を確かめる。或いは例の殿に瓜二つの男が現れたならば、立見は心強い加勢になるであろう」
だが、夜になっても酒井らしき人物の出入はなかった。時勢が時勢の所為か、訪う客人は幕府方の公用人が二人ほど夕刻に来たが、それも直ぐに帰って行った。用件は判らない。他は商人が味噌を届けに来ただけで、ついに亥の下刻になった。
午後からこのかた、服部はといえば軽い夕餉のあと、一度厠へ近習に付き添われて行ったのみで、寝所に籠もっている。
それ以外には、一度だけ例の公用人が来た時に取次の者が書状を持ってきただけであった。公務らしい公務はしていない。感冒が癒えていない様子は明らかであった。
斎藤は、若党から「客間でお寛ぎになって夕餉をお召上がりくださいませ」と言われたが、断ってやはり寝所の隣に膳を運んで貰い、其処で済ませた。
「お湯は如何でしょうか?」と訊かれても、断った。風呂に入りたいのはやまやまだが、厠へ行く程度の用事で終わるものでもなく、まして裸になれば無防備だ。立見を残して己のみのうのうと身体を解すわけにも行くまい。
その辺りは、斎藤は律儀な男である。尤も、誰も立見が潜んでいることなど知らない。
邸内の様子を伺うついでに厠へ寄った帰り、立見が音も無く斎藤の背後に寄り添った。
「そろそろ屋敷の門を閉めてしまう。一度休まれては如何か?その間、それがしが見張っておきますゆえ」
いや、と斎藤は首を振った。
「寝所の次の間で居眠りは拙いでしょう。一晩くらいなら大丈夫ですよ」
「何日この番に就いておらねばならぬかわかりませぬぞ。せめて、一刻ごとに交替しませぬか」
という立見の提案に斎藤が頷いた時であった。
裏庭のほうから、かさこそと物音がする。
二人は声をひそめた。誰かが勝手口の裏木戸を開けたようであった。其処は、門番も滅多に見回りに来ない。家中の一部の者が出入する為だけの隠し戸である。
斎藤は戸袋の蔭に隠れて息を殺し、立見は縁側の下へ身を屈めた。
宗十郎頭巾を被った男の頭が見えた。立っている斎藤からは、横顔がほんの一瞥出来ただけであった。人品卑しからぬ中年男であったが、暗いので面相を見て何者なのか判らない。
男が通り過ぎると、立見が立ち上がった。斎藤は小声で、
「あれが酒井様か?」
すると、立見はやや蒼白な顔で否定した。
「あの顔は―大久保一翁」
なんと、瓢箪から駒とはこのことである。幕閣の最たる恭順派、会計総裁の大久保一翁が、夜中に人目を忍んで越中守中屋敷を訪問するとは、つまり。
「服部が大久保と通じている」
斎藤と立見は顔を見合わせた。服部が如何なる事を目論んでいるか、或いは大久保が服部を抱き込んで桑名藩を懐柔しようとしているのかは判らないが、兎も角安穏ならざる出来事には違いない。
「踏込むか、それとも山脇様に報告に走るか?」
立見は目を泳がせた。斎藤は、
「此処はそれがしに一任くだされ。立見殿は築地までひとっ走りお願いしてよいですか?」
「承知」
と、立見は猫のように機敏に動いて裏木戸から飛び出して行った。
これが分別臭い身分の男なら、「いや斎藤殿、貴殿が危のうござる」などと押し問答になっていたかもしれない。立見が気の早い若者でよかったと思いつつ、斎藤は刀を落とし差しにかえて廊下を急ぎ足に歩いた。
服部の寝所の前まで来ると、しずかに立ち止まって待った。襖の奥からは何の音も無い。はて大久保はまだ邸内には入っていないのか、と思案していると、
「何用か?」
嗄れた声が襖越しに斎藤を問うた。服部は起きていたようである。
「は。申し訳ございませぬ。お起こし申し上げてしまい、あいすみませぬ」
「構わん。真昼間から寝ておるので夜は遅うなるのだ」
と、細い声。斎藤は耳を澄ませた。
「実は先程、それがし厠へ参りましたが、裏庭に不審な人物を垣間見たような気がいたしまして。もしや服部様のご寝所にと思い、慌てて戻って参りました」
「不審の者?」
「しかし、そのご様子ですと、それがしの思い違いのようでございますな」
斎藤は安心し切ったような声色で言った。「然様」と、返事が戻って来た。斎藤は、左手でそっと襖に手を掛ける。
「曲者など、この中屋敷には誰一人入れぬ」
「然様にございますか。曲者など―失礼つかまつります」
斎藤は襖を開け放った。同時に小暗い廊下の冷気が寝所に吸い込まれる。右手で鬼神丸国重を抜いた斎藤が薙ぎ払ったのは、その冷気のみであった。
布団に膨らみは無く、奥の間へ続く襖に白い男が立っていた。
「大久保ッ」
斎藤は唸った。寝間着の男は服部半蔵ではなく、今し方見たばかりの大久保越中守一翁(忠寛)の顔をしていた。
どういう事なのか。たった今まで嗄れているが、服部の声で応えていたではないか。
その服部はいったい何処へ。
「服部様を如何なされた、大久保越中守殿」
大久保は黙ってにやりと笑った。刀掛にあった服部の大刀を取り、抜き振るう。斎藤はかわした。
如何にも面妖な事とはいえ、幕府の要人相手に剣を交えるというのは容易ならぬ。本来なら、抜刀して踏込んだ時点において、斎藤は何の反抗理由ももたなかった。無礼討ちとされても文句は言えない。
だが、礼儀節度を人一倍重んじる筈の斎藤が敢えて大久保に刃を向けたのは、他でもない。
大久保の発する気が異様だったのである。
「遠慮は無用じゃ」
大久保は笑った。斎藤は息を呑んだ。心が読まれているかのようである。
「あとあと訴獄したりはせぬ。他藩の家臣とはいえ、服部の身を案じて意を決し抜刀したことは、士道にもとづく行為。後を帰り見ぬ粗忽者ではあるがの」
斎藤は、どっと汗が噴出してくるのを感じた。
「一度抜いた刀、収まりが悪いであろう。遠慮せずかかって参れ。一度名うての新選組の太刀筋を見てみたかったのよ」
そう言われると、ますます遣り難い。大久保は「いざ」と、青眼に構える。斎藤は決心がつきかねた。当人に言われても、今更に真剣勝負など出来るわけが無い。
「否、おれはこんな事をしにきたのではない」
と、漸く思い直して斎藤は再び問い返した。
「服部様は何処へ?」
大久保は答えなかった。ややあって、物音を聞きつけた邸内の者がばたばたと押し寄せてきた。
「如何なされました、御家老」
若党らがやって来た。斎藤が半身を捩った時、隙を狙って大久保が前へ飛び出した。刀は捨てている。まるで軽業師のごとく身を捻って縁側を蹴り、築塀へと足を掛けるや、忍び返しも物ともせず、いとも容易く飛び越して去って行った。
「御家老は?」
と訊ねる若党に、斎藤は首を振った。
「服部様はおられぬ」
「貴殿は山脇様より御家老の警固を与っておきながら、何たる不首尾」
一人の近習などは、憤って斎藤を責めた。如何にも、と斎藤は頭を下げた。だが、畢竟斎藤が異変に気付く前から服部半蔵は寝所にいなかったのである。
やがて、火の手が上ったかのように邸内は騒然となった。斎藤が一人取り残されたように裏庭に佇んでいると、誰かが遠くで叫び声を上げた。
「服部様が、土蔵の裏におられました」
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