(九) 躍る松平定敬

 初春の陽もにょっぽり朧がすみに照れ隠れ。水面に映る舟影もさんざめく嬌声に揺れる夕映え時、「かっぽれかっぽれ」の声が深川中に鳴り響かんばかりに大盛り上がりの傾城屋があった。
 『千鳥屋』である。久方ぶりに美濃屋新右衛門のご登楼というので、遊女がどっと押しかけた。
 当の新右衛門もこれまでにない張り切り振りであった。夜遊びは風雅ではない、と宵の口に遊んで帰る粋を気取って乗り込んでいる。
 粋な黒羽織の裏地にどぎつい浮世絵の筆を見せられて、遊女らも思わず苦笑い。
「あれ若旦那、いやですよゥ」
「何を今更、未通女みたいなことぬかしてやがる、白首女どもめ」
 と、勢い酒盃を呷るや立ち上がり、
「さァて、今からおれが一踊りする。おれの手振り足振りに寸分違わずついて来られたら、その女子にゃこいつを一枚」
 小判を懐から取り出す。わっと押し寄せる遊女達。
「ただし、間違っちゃあそのたんびに一枚ずつ脱いでけ。さァ三味線おっぱじめな」
 威勢良く始まるお囃子に、新右衛門はさっそく躍り始めた。
「今晩の美濃屋さんはまた一段と派手だえ」
「きっといい商談でもありなさったんだろうねぇ」
 などと、膳を運ぶ女達がこそこそ噂する。その女どもが座敷の一隅に蟠っている二人の男の前に、無愛想に酒徳利を置いて行った。
「まったくもってやり過ぎではござらぬか?」
 と、若いほうの男が訊く。すると、隣の五十がらみの男が深く頷いた。
「ここのところの鬱憤が蓄積しておられたのではないかと存知まするが……」
「それにしては、やはりちと度が過ぎておられませぬか?余所者が口を挟むことではないのは重々承知しておりますが」
「いや。憤懣やるかたなしとはいえ、やり過ぎでしょうな、斎藤殿」
 美濃屋の大番頭に扮した山脇十左衛門が同意した。これも、浪人風のなりをした斎藤が顔を見合わせる。
「我が殿は」
 嘆く山脇の目前に、三味線に合わせて踊り狂う新右衛門つまり松平定敬の姿があった。
「しかしながら、見事なまでの化けっぷり、いや御変装ぶり。まるきり大店の若旦那ですよ」
 わけの判らぬ感心を寄せる斎藤の横で、山脇は仏頂面であった。定敬の器用さは知悉しているが、それにしてもいったいあのような口説や知識をいつ仕入れたのだろう、と山脇は不思議でならなかった。
 見る間に白首女どもはどんどん身包み剥がされて、嬌声を放っている。
「お止めいたしましょうか」
 斎藤は気を利かせて言った。山脇は首を横に振った。憤慨しているのではなく、むしろひどく遣る瀬無い心地で、山脇は赤くなったり青くなったりした。
「いやいや。これは美濃屋新右衛門なる男の所業にて、賢明なる我が殿はけしてそのような方ではなく、総てわきまえておられる」
 と、耐えている。斎藤は、だんだんその様子が可笑しくなってきた。
「何だか京の頃の事を思い出しまする」
 斎藤はぽつりと言った。成る程、新選組の派手な遊興や品行の悪さは一時期京雀の噂になっていた。
「ははあ、さては我が殿。所司代時代に斯様な事もお覚えになられたか」
 山脇は苦笑した。
 やがて、襦袢姿の遊女達に向かって、新右衛門は金子をばら撒き始めた。これにはさしもの山脇も、膝を立てずにはいられない。
「やっ、御前――いや、若旦那様。それはなりませぬ」
 その金子は、桑名藩が今後戦を展開する為に武器を買い込もうと蓄えておいたなけなしの財ではないか。御酒が回ってついに正気でなくなられたか、と膳を引っ繰り返さん勢いで、山脇は飛び出した。
 丁度その頃、階下でも騒ぎが芽吹いていた。
 『千鳥屋』の玄関にもう一人の美濃屋新右衛門が現れたのである。此方は番頭づれではない。驚いたのは店の者である。一刻前に二階に上がって大広間を占拠し、どんちゃん騒ぎを繰り広げている。あれが美濃屋なら、たった今やって来た男も美濃屋である。
 しかも同じ顔付きで、寸分も狂うところがない。
「どういうこったい」
 慌てふためく主人に対して、女将はどっしり構えたもので、
「何言ってんだいお前さん。確かにありゃあ同じ顔だけどね。同じ美濃屋なら羽振りのいいのも同じだろ。うちは二倍儲けじゃないのかい」
 そう言って、後から来た美濃屋もさっさと座敷に通してしまった。
 案内する女中に、もう一人の美濃屋は言った。
「何だい。今晩はえらく派手な先客がいるようだが」
 女中は、やや躊躇いながら、「ええ、大店の若旦那様ですよ。ご常連の」
「常連?うちの他にそんな豪気な客がいたとはね。どれ、ちょいとお顔を覗かせて貰おうじゃないか」
 と、大広間の襖を開けたものである。
 三味線の音が、ぴたと止まった。

 襖を開けたほうも開けられたほうも吃驚した。美濃屋新右衛門と美濃屋新右衛門の鉢合わせであった。尤も、今し方まで踊っていたのは松平定敬である。
「美濃屋が二人」
 女どもの声が上る。後から来た新右衛門が、座敷に入って来た。
「この美濃屋新右衛門の名を騙っているのはお前か?」
 すると、片肌脱いだ定敬は、素直に頷いた。どっと遊女らの間にどよめきが走る。しかし似非者にしろ何にしろ、金は本物に違いない。女どもは畳の上の金子をせっせと掻き集めだした。
「騙りを放っておくわけにはいくめえ。何者だ?」
「何者だと問いたいのは此方のほうだが」
 定敬は言った。目を剥く新右衛門に向かって、定敬は皓歯を見せてにやりと笑った。
「そのほうこそ、他人様のお顔を拝借して遊興に耽っているのではないのか」
 山脇と斎藤を除く者達がぎょっとなる。
 定敬は刀掛にあった佩刀を掴み、「斎藤」と声を掛けた。斎藤は、自前の鬼神丸国重を定敬に差し出す。
「さ、抜けい」
 定敬は言い、国重を新右衛門に手渡した。
「いずれが美濃屋新右衛門と譲らぬのなら、真剣勝負で決着せねばなるまい」
 ぬらりと大刀を抜き、構える定敬に、新右衛門は呆然となったままである。山脇は冷や汗がどっと噴出してくるのを感じてか、何度も手で己の額を拭った。
「なっ、なりませぬ。揚屋で刃傷沙汰など」
 叫ぶ山脇を、定敬はじろりと睨め付け、青眼に構えた。最早、定敬にしろ山脇にしろがすっかり武家言葉に戻っていたが、そのことに気付く者もいなかった。
 新右衛門は恐る恐る国重の鞘を払った。相青眼に構える。定敬は一気に踏込んだ。
 咄嗟の事であったが新右衛門は物打どころ下方で定敬の剣を受け止めた。定敬は一歩退いて、再び青眼に構えるや、今度は撫でるように左へ刃先を流した。新右衛門はかわし、たたらを踏んだところで、
「でっ、出来ませぬ。もう御勘弁くださいませ。御前様ッ」
 大音声で叫ぶと、顔面蒼白になり、倒れてしまった。定敬は大きく息を吐くと、納刀した。
 唖然としているのは、山脇と斎藤ばかりであった。
「この男”御前様”と叫びましたが」
 畳の上に失神している新右衛門の顔と定敬を代わる代わる見ながら、山脇は訝った。
 然様、と定敬はきっぱり答える。
「此奴は美濃屋などではない。酒井孫八郎ぞ」
 山脇は、二度吃驚する。どう見ても顔立ちは定敬そっくりの美濃屋新右衛門ではないか。
「太刀筋と構えで直ぐに判ったのだ。孫八は半蔵と並んで年も近いゆえ、桑名では余の稽古相手をやっておったしの。癖で少し青眼の左肘が曲がって見えるのだ。ひと目で知れる」
「はあ」
「それに、孫八郎は体力がなくておれに勝ったためしが無い。はなから真剣勝負など仕様がないのさ」
 定敬は爽快に言った。
「しかし御身、お顔は」
 やはり定敬そっくりの顔を見て、山脇は俄かに信じ難かった。定敬は腕組みをして、豁然と頷いた。
「肉襦袢か何かで変装しておるのやもしれぬ。その辺り、半蔵も呼んでちくと問い質す必要がありそうだな」
 そう言うと、定敬は野次馬に来ていた店の主人や女中にあれこれと指示し、気絶している酒井を運び出させたり、散らかった座敷を片付けさせ、ばら撒いた金子は騒ぎの駄賃として与えるなどと言う。
「久方ぶりによう酒(ささ)を頂戴した。やはりこの店は美形揃いよのう」
 などと笑いながら出て行った。
 山脇は事態が殆ど飲み込めないまま、上機嫌らしい主の後を追ったのであった。斎藤はといえば、さらに解せぬまま国重の物打に傷が入ってないかどうか気にしつつ、やはり居た堪れないので『千鳥屋』を出たのだった。

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