あとがき・解説
[松平定敬の略歴について]
松平定敬は、弘化3年(1846)12月2日、美濃高須藩藩主松平義建の七男(容保は六男)として生まれた。桑名藩主である松平定猷(さだみち)が安政6年(1859)に江戸で死亡した時、跡継となるべき長男(万之助)はわずかに3歳。幕末の多端な折から幼児ではおぼつかなく、定猷の長女・初姫に急いで婿養子を取ることとなり、高須藩から定敬を養子として迎えた。定敬は14歳、初姫はまだ3歳であり、結婚ではなく婚約であった。
桑名藩主となった定敬には、先代から受けついだ京都警衛役の仕事があったが、もっぱら江戸で幕府の御用を勤めた。万延元年(1859)に漸く江戸詰を解かれ、桑名に来ることになっていたが幕府から許可が出ず、江戸詰のまま明けて文久4年(1864)1月14日に家茂とともに上洛(この間実は京都に到着しつつもさまざまな事情で国元や京坂を往復)。そして同年4月11日には、京都所司代に任命された。
京都所司代といえば、京の護衛かつ朝廷の監視と連絡、西国大名の監察を行うのが主な任務で、将軍より各大名(譜代)から選出され、任命される重職である。大阪城代、そしてこの職務を経て老中となる出世パターンが定着していた。定敬の就任は兄・容保に乞われてであるが、将軍・家茂の信任が篤かった定敬であるからこそ選ばれたのだといえよう。江戸での溜詰(たまりづめ=溜間に出仕する。親藩のみ)時代に、同年でもある将軍にかなりの信頼を置かれたとみてよい。
家臣談やその他の資料から想像するに、定敬はすぐ上の兄・容保が蒲柳の質でいかにも儚い貴公子の風情であるのに対して、健康的で「きびきびした若様」のイメージが浮かんだ。乗馬が得意で、一説には京都時代から洋装、総髪であったともいう。戊辰戦争では一兵卒の姿に身を窶して箱館まで転戦し、その箱館では英語も学んでいる。もしかしたら、銃の扱い方も習ったのではなかろうか。そういった冒険心旺盛な人柄であり、降伏後も琉球を占拠するだろうだの噂が流れたり、抗戦派の人間には殊に人気があったようでもある。
[一会桑と戊辰戦争への動き]
そんな定敬が最も活躍の場を広げたのは、つとに「一会桑」と呼ばれる京都政権の鼎脚の一としてであった。
「一会桑」とは、一橋慶喜、会津藩(容保)、桑名藩(定敬)のことをいう。そして、この関係を語らずして物語は成立し得なかった。三者の同盟関係は、元治元年四月以降、定敬が京都所司代に就任して揃い踏みした頃から始まる。従来は、所謂幕府側の意見を一括代表した立場で京都に乗り込んだという史観が多く、とくに会桑が幕府の権威に源泉を持って固陋に攘夷を唱導しようとした風に捉えられているが、実際はそうではなかった。初期の頃はとかく江戸にいる幕閣連中と対立していたことは明らかである。(拙作『死闘、猿ヶ辻』でも触れてある)
詰まるところ、それまで江戸や国元にいて考えていたことと、現実にギャップがあることが京に来てわかった。孝明天皇や公家と接触していくうちに、自ずと考え方を変えて行かざるを得なくなってくるのである。最も痛感したのは守護職であった容保であろう。容保もそもそも強固な攘夷論者ではない。
就任後まもなく木像梟首事件などに直面したり、天誅組残党やさまざまの過激派浪士の動きに苦渋を覚え、一筋縄でいかない公家連中に辟易する。会津藩が当初と一転して取締強行になったのが、そのことを明白に表している。生麦事件の後、小笠原上洛事件においていち早く会桑が阻止に回ったというのも、この時の江戸幕閣と現場の人間の意見対立から来ていることは間違いない。つまり、幕閣は武力行使してまでも朝廷に攘夷の無駄を説きたかった、あるいは鎮圧して開国に進みたかったが、実際孝明帝に信任を得て、公家らとの付き合いのあった会桑は懐柔しつつ取り込む必要があると考えたのではないだろうか。公武合体といいつつ、そこは飽く迄幕府に有利という意味で。立証されてはいないが、中川宮と会津との密接な関係を見るとそう思える節が多いにあり、また攘夷先鋒たらんとする公家連中に取り入ろうとする西国大藩の浪士どもを斥けるのは、傍で見ているよりも遥かに厄介な事だったと考えられる。
このあたりの政局の推移を説明しつつ私見を述べるのは、枚挙に暇がないので割愛する。最後に掲げる関連資料などを参考にして頂きたい。
大雑把にいえば、幕閣は既に将軍・家茂上洛あたりから権威の失墜をまざまざと感じており、孝明天皇の「奉勅攘夷」に振り回されて政事の中心はほとんど京に移行してしまった。その京へ送り込んだ「一会桑」が現場独自の意見を持って政治の中心に出張ってきたのが面白くない。幕府方は京における一部の有力者によって政権を掌握するをよしと思わず、切り崩しに掛かったのだといえる。こうなっては最早内部崩壊しかない。もともと会津とは立場の異なった一橋から乖離していった形で三者の同盟は短命に終わる。
よって、幕藩体制の瓦解そのものも薩長などの雄藩が武力でもって倒幕したという勇壮なものというよりも、内部崩壊が決定付けられて、そこにうまく隙を逃さず討ち込んだ側が勝利を得たといってよいだろう。これは飽く迄会桑悲劇史観ではなく、ニュートラルにそう見える。
そして、本作でしばしば問題とされる「将軍東帰」。慶喜の敵前逃亡や卑怯行為に思われがちだが、必ずしもそうではない。この直前までは、慶喜はかなり周到に立ち回って不利を回避している。大政奉還後、昔の幕藩体制に戻す気はなかった慶喜と、王政復古に難色を示す会桑の意見は対立していた。そこで薩摩の西郷と大久保(利通)らは王政復古のクーデターを起こした時に必ず動くであろうと予測していたのが会桑の二藩。しかし、慶喜の制止によって会桑は動かず、薩摩の挑発には乗らなかった。
慶喜はむしろ会桑の強硬姿勢を宥めつつ、幕府サイドに有利な展開で王政復古後の進退をすすめていたのだが、その事が西郷や大久保らの不評を買ったようである。慶喜が中央政界で議定職に就くことがわかると、途端に徳川を潰す方向に回ります。彼等はもともと少数で政権を掌握しようという傾向を持ち(他藩や長州に対してすらそうだった為にのちのち批判の対象となる)、慶喜がいては問題があると考えて排除する行動に出た。それが江戸における薩摩浪士の横暴であり、挑発に乗って藩邸に焼打ちを掛けるに至った幕府を攻撃する口実を作ったのである。かねてより不満を押さえつけられていた旧幕勢力、会桑兵士らが一気に激昂し、「伐薩除姦」を掲げたのは言うまでも無い。
ただ、慶喜はそうなってしまったからといって容保・定敬を火中に投じたままにするつもりはなかったと思われる。彼が両人を連れて大坂へ行き、開陽丸で脱出を図ったのはこんにちの不名誉とされているが、単に抗戦前に錦旗が立った為に敵前逃亡するしかなかったとは考え難い。まず、天下の台所である京阪を最小限の被害に止めようとしたことは賢明といえよう。結果的にはそれまで日和見を決め込んでいた大坂の富豪などは新政府支持になってしまったが。
「会桑を止めおいたら戦は免れない」という発言にも偽りはなかったと思われる。既に会桑二藩の意見は、他藩から浮き上がってしまっているのを慶喜は認識していた。もっぱらターゲットにされているのはこの二藩であり、彼等が背負っている「旧体制」を叩きのめすことが薩摩をはじめとする新政府にとっては重要だと考えられていた。幕府の象徴を叩くという行為そのものが、討幕派における中庸派、新体制に疑問をもつ人間に対して有効に訴える手段だと判断したのだ。
まことにバカバカしいが、つねに戦とはそういうものであるともいえる。客観的に見て既に終焉を迎えている勢力の息の根を止めるという残虐行為は、数え切れないほど歴史の中で繰り返されてきた。尤も、倒幕派においても大半の意見がそうだったわけではなく、本来は慶喜が推し進めた路線でソフトランディングする筈であった。そこに一部の人間によって劇的な交替劇が求められたところに悲劇が生じる。
そして、そのことは慶喜に限らず容保も定敬も想定していたと思える。想定しつつ、慶喜はさも変節を起こしたかのように恭順を両人に推し進め、判っていながらも武士として抗う道を選んだ兄弟は、お互いに恨み合ってはいなかったのではないだろうか。三者の胸中を推し量る事は難しい。
[桑名藩家臣その後]
桑名藩、定敬に関する資料や創作物は会津や新選組に関するものに比して少ない。しかし桑名の殿様が会津の殿様同様にのちのちの人々に愛されていたことが、情報を得るうちにわかってきた。悲劇の人としての色合いを帯びることは畢竟だが、それだけではない清々しさを感じた。松平定敬はきっとこういう雰囲気の人物ではなかったかと思うと、何時の間にやらこういう話を書いていたという次第である。
吉村権左衛門については作中の冒頭と終盤にしか出てこないので、ここでざっと説明をしておく。
文政三年(1820)生まれ、桑名藩の番頭から江戸詰家老となり、慶応三年に政治総宰となった。京にうつって所司代の定敬を助け、鳥羽・伏見敗戦ののち江戸、柏崎に至る。既に開城していた国元より密使を得て定敬に諫言し、衆論を恭順へと導くが、定敬の密命を帯びたといわれる高木貞作(当時は剛次郎)、山脇隼太郎(山脇十左衛門の長男)に斬殺された。慶応四年閏四月三日のことである。
資料を読んでいて、この辺のくだりに差し掛かったとき。正直言って驚いた。いくら藩内の論がまとまらないからといって、藩主が家老を亡き者にしようとするのはかなり乱暴な話ではなかろうか。
そこで吉村謀殺の発端が、実は江戸滞在の頃からあったのではないかという物語を考えたのが、本作である。柏崎で吉村の死後、それまで恭順派であった服部が定敬に従うというのも唐突過ぎて納得が行かなかったのもある。トリックを思いつくのに、服部と酒井が異母兄弟であり定敬と年が近いのも幸いした。
山脇十左衛門は、柏崎に行ってから軍事奉行となり、北越において河井継之助、佐川官兵衛と並んで「北越戦の三傑」と評される。降伏後は自らの責任を取り、藩士処分の軽減を嘆願し、明治三年に桑名藩権大参事となり、服部の下で政治につとめたが翌年、病を以って辞職、明治十一年に五十九歳で没する。
立見鑑三郎尚文は、定敬が出立したのち宇都宮戦に身を投じる。その後柏崎へ合流し、北越に転戦、庄内で降伏する。維新後は桑名藩権少参事などを経て西南戦争に従事。このとき、もしかしたら藤田五郎となっていた斎藤一に会い、ともに戦っていただろうかと思う。
なお、立見のエピソードとして有名なのは、宇都宮戦において怖気付き、敵前逃亡しようとする桑名藩兵を立見の目前で土方歳三が斬ったという話だろう。それまでの立見には臆病な部分もあったが、以後人が変わったように果敢になったともいう。
服部半蔵は、柏崎にて軍事総宰になり、官軍の若松侵攻時に定敬と離れて庄内へ行き、ついに謝罪、謹慎する。それ以後箱館まで定敬の消息を知らず、密使によって漸く知るや高木貞作らを派遣した。維新後には桑名藩大参事をつとめ、西南戦争に従軍する。明治十五年に病を経て三重県御用掛を辞め十九年に没する。四十一歳であった。
酒井孫八郎は国元にて社稷を回復するに奔走する。御蔭で桑名藩は会津のようにはならなかった。定敬が箱館で戦に臨もうとするを知り、単身赴いて榎本武揚、土方歳三と交渉の末に定敬脱出を成功させた。のち桑名県大参事・宮内少監等になり東京にて病没。三十五歳という若さであった。
さて、この後明治元年七月十六日に漸く会津若松入りをした定敬は再び兄に見えるが、ひと月後にはまた決別をせざるを得なかった。
その別離の場が会津若松市内の蚕養口(こがいぐち)である。行ってみれば、蚕養国神社がひっそりと建っており、東へすすめば天寧寺、先に見えるは飯盛山。今は住宅地になっていて、一面見渡す事は出来ないが、バスを蚕養停留所で下り、辺りを散策しながら兄弟馬上の別離をしのんだ。人気はなかった。
滝沢村の本陣から鶴ヶ城へ帰る容保と、前線で指揮をふるっていた定敬との間にどういった会話がなされたか。或いは米沢街道へ去る定敬は、何度か兄の姿を振り返っただろうか。
定敬は米沢、福島、仙台、箱館と転戦を重ね、おそらく容保に再会出来たのは謹慎の解けた明治四年以降ではなかっただろうか。
その定敬の身柄を救いに単身箱館まで赴くのが、他でもない酒井孫八郎であったことは感慨深い。
忍者の存在については、平戸藩主の松浦静山が残した『甲子夜話』にいくつか掲載されている。少なくとも幕末の頃には信じられていたのだと思う。
【参考書籍など】
『松平定敬のすべて』 新人物往来社(1998年)
『桑名藩戊辰戦記』 郡義武/新人物往来社(1996年)
『三重幕末維新戦記 藤堂藩・桑名藩の戊辰戦争』 横山高治/創元社(1999年)
『稽徴録ー京都守護職時代の会津藩史料』 家近良樹編/思文閣出版(1999年)
『新選組情報館』 大石学編/教育出版社(2004年)
『日本史事典』 角川書店
『日本史総合年表』 吉川弘文館
(十一)へ
小説目次へ
「とにかく殺す!」目次へ
所司代TOPへ
本館TOPへ