(一) 松原油小路
藤堂平助が最近何者かに追われている、と永倉新八が言った。
斎藤一は、空になった盃に手酌で清酒を注ごうとしていた。安徳利はすっかり冷えている。
四条麩屋町の青柳亭という小料理屋に居座って半刻ほどの時間が過ぎようとしていた。
「平助が。――永倉さん、それをおれに聞かせてどうするつもりですか?」
斎藤は少し口許を緩めた。永倉は斎藤の右手から徳利を奪い、注いでやる。
「いやな。平助はそんな事おれ達の前じゃ、おくびにも出さねえ。本人はとっくの昔に気付いてるだろうが、おれの見たところ、追ってる男はどうもきな臭い」
と、永倉は言った。
「長州か土佐か、いずれかの浪士ですか」
いや、と永倉は否定した。
新選組に属する人間にとって、彼等尊攘派浪士の過激の輩が後を付け回すというのは日常茶飯事に過ぎなかった。
尤も、それも永劫ではない。仲間割れで消え去るか、組の中の誰かが市中警邏中に斬ってしまえばお終いだ。逆につけ狙われている側が局中法度を犯して土壇場の露と消えることもなくはない。
「その男、江戸で見たことがある」
永倉は、四角い顔をより角ばらせて唸った。
新選組が西本願寺に屯所を遷して以来、平助の周りを嗅ぎ回っている奇妙な奴輩がいるのだ。
「試衛館に居た頃からつけ狙っていたということですか」
斎藤は、ゆるゆると酒を飲みながら言った。手元がぼんやりと灯りにけぶっていた。
ふと目を上げると、奥に店の親爺の仏頂面が覗いた。此処の親爺は政吉というが、京都奉行所の下っ引をやっている。永倉と斎藤が何を話していようが、決して外部に漏れることはない。
「それはわからん。だが、おれは一度ならず見かけたことがある。平助が試衛館の外で何をしていたかまでは与り知らんが」
斎藤にも、それは判らない。藤堂平助は、もともと近藤勇の経営する市ヶ谷の試衛館道場に居たわけではない。永倉とて斎藤とて、同じ外様の身であった。
「お前は見たことがあるのかと思って訊いたのだ」
さてね、と斎藤は盃を置いて政吉を手招きした。鰻巻きと銚子をもう一本追加する。
「確かめてみないことには判りません」
「そう来ると思っていた。明日は八番組の見廻りがある。その折について来てくれまいか」
永倉の提案に、斎藤はいいでしょう、と快諾した。明日は剣術指南も休みである。
こういう時こそ本来は休息所へ行くに限るが、さりとてその義務もない。まして斎藤の親しげな女というのも、堅気の素人ではないので一向構わない。
「それにしても永倉さん。どうしてまたおれを?」
最初に訊きたかったのは、それである。
斎藤は相談事を持ちかけられるほど、これまで平助と親しいとも思ったことはない。仲が良いというのなら、むしろ沖田総司であり、真摯に相談というのならば、平助の師匠筋に当たる伊東甲子太郎が適役ではなかろうか。
「いや、総司はここのところ体調も思わしくないので、引き摺り回すにしのびない。前のお師匠だといって、伊東さんの手を煩わせるほどの事かどうかも判然としない。左之助だと、平助本人にばれちまいそうでな」
「成る程判りました」
おれは引き摺り回すに格好の暇人か、と斎藤は思う。
斎藤は鰻巻きを箸でつついて丁寧に割る。一口には食わない。汁気の多い卵焼に閉じ込められた蒲焼鰻をいとおしんで食べる。こんな食べ物は江戸に無い。
永倉はどうも、鰻巻きは性に合わないらしい。蒲焼という江戸っ子の食い物、しかも上方風に腹から掻っ捌いて焼いたものを出汁巻き卵で包むというのは、如何にも関東者が薄味の関西者に囲まれて小馬鹿にされているようで、癪に障る。
「うざくも美味いですよ」
と、斎藤は嬉々として言う。食い物には無節操な男め、と永倉は半ば呆れ顔だ。
「腹開きの鰻なんぞよく食う」
何を言われようが、斎藤は健啖であった。
翌朝、斎藤は永倉に言われた通り、八番組の見廻りが屯所の門を出た後、少し遅れて外出した。
普段、休日は起床の遅い斎藤が珍しく早起きをしていたので、平隊士らも怪訝な顔で見送った。
斎藤が初めて平助と顔を合わせたのは、無論、市ヶ谷の試衛館道場であった。
文久二年の春のことである。
多摩あたりで流行っていた天然理心流という小派の道場で面白いところがある、と噂に聞いた。斎藤はそれまで小野派一刀流を学んだり、新蔭流を齧ってみたりもしたが、いずれも目録さえ取らずにやめていた。
何くれと無く派閥を競う幕臣の子弟の風潮が嫌で、腕は兎も角長続きしない。
「気品が無い」「邪道の剣」といわれて腹が立つので居る気がしなかったというのが、本音でもある。
乱れゆく政情、もしかしたら今一度剣の腕が乞われて何れの者が世に躍り出んとも限らんというのなら、何を今更板間の上でえいやあ、と竹刀のような軟なものを振り回して意味があるのか。
真剣勝負で相手を打ちのめしてこその剣技。それには些かの自信があった。
九段下の実家から市ヶ谷まで歩いているうち、花見客らしい酔漢と擦れ違った。何やら酔った渡世人が若い男に絡んでいる。昼日中から気楽なものだな、と横目で見ながら斎藤は通り過ぎた。
旗本屋敷の立ち並ぶ中、目指す門構えが見えてきた。
つと四辻を曲がって、同じく甲良屋敷を目標にしてきたらしい若い侍が出て来た。月代姿も青々しく、色白で小柄な目元の涼しげな男である。斎藤は不審に思った。
「先程絡まれていた男に似ている」
だが、身形は大きく違った。絡まれていた男の袷はどことなく垢じみた青砥縞であったが、今出て来た男は清潔な印象の鮫小紋である。似てはいるが、方角から考えても時間的にも同一人物ではない。
その凝視している様があまりに異様だったのか、
「あの、私に何か?」
男が立ち止まり、問い掛けた。斎藤の方が慌ててしまった。
「いや、その。試衛館道場はどちらかと」
その一声で、若者の顔が明るんだ。頬に赤味が差す。
「試衛館なら私も今から伺うところです。あなたも門人のお一人でしたか」
藤堂平助、と名乗った。細かく言えば斎藤は試衛館に出入する前に平助と知り合っていたことになる。実際この時は、平助もまだ北辰一刀流・伊東道場の門下にあったのだが。
七条堀川を北上しているうち、いつしか永倉が合流した。見廻りの一群とはかなり間を置いて追っているが、浅葱色の背中がちらつくので好都合な目印といえた。既にあの目立つ羽織を着用していない組もあるが、平助が糞真面目に使っているのが功を奏している。
「怪しい男はまだ見ませんが」
と、斎藤は前を向いて歩きつつ言った。永倉は黙って頷く。
見廻組の縄張りに入ってはいけないので、そろそろ東へと動き出したその時、町会所の者らしい男衆が八番組に耳打ちしているようであった。
「捕り物か」
永倉が呟いた時、一気にだんだら羽織が乱れて駆け出した。松原通を東へ向かっている。木屋町筋の居酒屋あたりか何処かで浪士を見たか。或いは暴徒の類か。
斎藤も永倉も時を同じうして小走りになった。
平助を頭に、居酒屋の表口から飛び込んで行く。「魁先生」の面目躍如か。次々に御用改に乗り込む浅葱羽織を見遣りつつ、永倉ははっと息を呑んで立ち止まった。
「奴だ」
居酒屋の蔭を窺うようにして立つ若い男の姿があった。浪士風の総髪である。面差しを見て、斎藤は瞠目した。見覚えのある顔であった。記憶を手繰れば市ヶ谷の光景と散り往く花々が霞のように掛かる。あの時、酔漢に絡まれていた男。
「似ている」
覚えず呟いていた斎藤に、永倉が呼応する。
「似ているだろう、平助に」
肯んぜざるを得ない。だが、諾々と認められない一種の禍々しさを斎藤は感じていた。
それが無意識に作用したか、右手で鬼神丸国重の柄を握り締めていたのに気付いたのは、何事もなく居酒屋から捕縛された浪士を引っ立てて、平助らが出て来たのを見た時であった。
既に男の姿は消えていた。
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