(三) 西本願寺屯所

 果たして平助が西本願寺へ戻ってきたのは、四つ下刻であった。斎藤は待ち構えていたという風情を見せないように、柱の蔭から廊下を渡る平助を呼び止めた。
 振り返った平助の白い顔は、普段よりも赤らんでいた。
「飲んでいるのか」
 と、斎藤が問えば、
「少し」
 平助は伏し目がちに答えた。長い睫毛がけぶっているのは夜霧の所為か。再び部屋へ戻ろうと歩き出す小柄な身体を斎藤が引き止める。
「羽田野弥九郎とはどういう男だ?」
 平助は言い澱んだ。そして、顔を背けたまま、
「斎藤さんには関係のないことですよ」
 そうはいかんな、と斎藤は平助の左腕を掴み、小袖をたくし上げた。二の腕に粗末な包帯が巻かれている。着ている物もよく見れば今朝とは違っている。
「掠り傷ですよ」
 と、袖を引き下ろそうとする平助の丸い眸が波立っている。
「ならば尚更だ。斬り付けられて敵に背後を見せるとは、士道不覚悟。鬼の副長に報告したら何と言われるだろうか?」
 斎藤は皮肉な口調で言う。
「切腹ですか」
 けろりとして平助は答えた。「山南さんの時のように、私も武士として恥じぬ最期にしますよ」
 斎藤は鼻白んだ。平助は酔いに任せて冗舌である。
 しかも、二年前の山南敬助切腹のことを持ち出すなど、未だ以ってその時の蟠りが解けないでいるようでもある。確かにあの時、平助は京ではなく江戸に居た。戻ってみれば親しい人を失っていたという爪弾きにされた憤りは、癒えぬのかもしれない。
「しかし、そうそうに死ぬわけにはいきません。私にだってまだもう一仕事はありますから」
 そう言って、平助は斎藤を人気の無い客間へ引き入れた。平生、会議に使用している八畳ほどの部屋であった。両人は向き合って座る。灯りは斎藤が点けた手燭のみである。
「あなただから話すんです。余人は挟まないと誓ってくれますか?」
 薄暗い灯の中で、斎藤はしっかりと頷いた。頭の中には永倉の顔が浮かんでいたが、斎藤は静かに、
「ああ」
 とだけ答えた。

 平助が羽田野弥九郎に出会ったのは、安政二年(1855)十月二日の夜半であった。
 四つ刻、長屋で母と二人床に就いた時であった。平助は道場通いの疲れですぐにも意識を失い、母は内職の縫物をし終えたばかりであった。
 突如として、地震が起こった。平助は飛び起きた。母もほぼ同時であった。
 家具が倒れ、長屋が傾いできたので慌てて夜着の上に羽織を羽織って飛び出すと、近所の者も外へ転ぶように逃げ惑っていた。老朽化していた長屋はやがて半壊し、ほうほうの体で余震の続く中を、深川から城の方角目指して歩いて行くことにした。市ヶ谷には親戚がある。其処へ行くのだ。
 すると、母があっと叫んで蒼褪めた。
「大事な物を置いてきてしまいました。どうしましょう」
 聞けば差料であるという。平助の亡父が藩勤めを辞した時賜ったという物であった。父を病で亡くして数年余、家計は貧しくなったがどうにかして母が女手一つで生計を守り、平助が元服するまではと唐櫃に入れて保っておいた物である。
 母はひどく狼狽して、深川の長屋へ走って戻った。平助も後を追った。
 既に本所から深川、浅草、下谷などは火の手が上っており、そう広範囲ではないが夜空に赤々と炎が立ち上っている。遠近の家屋は倒壊しており、人々も逃げ惑っている。平助は母の姿を見失わないよう、必死で走った。武家屋敷も商家もことごとく潰え、家屋の下敷きになって喘ぐ姿、半鐘のけたたましい声、叫ぶ赤子、取り残された老人。十三になったばかりの平助には、さながら地獄絵図のように覚えた。
 これが世に言う、安政の江戸大地震であった。
「母上!」
 平助が元の長屋へ辿り着いた時は、母の姿が見えなかった。半分傾いだ長屋の中へ入ろうとした時、中から一人の少年が出て来た。少年は、黒い講武所拵の鞘をした刀を握り締めていた。
 少年が這い出るとほぼ同時に柱が崩れた。
「はっ、母上」
 平助は駆け寄った。だが、二度とその奥へは入り込めない。
「お前が平助か?母上なら既に絶命しておるぞ」
 少年は老成したような物言いであった。口は達者だが、顔はまだあどけなく、せいぜい平助より一つか二つ年上と見えた。それに、何処か自分に似ている、と平助は思ったが直ぐに口をきけなかった。
「唐櫃を開けておった時に梁が崩れてきて、その下敷きに。おれが助け出そうとすると、生きてもこの怪我では平助の足手まといになる、いっそ死なせてくれと」
 少年は淡々とおぞましい事実を語った。
「この差料をお前に渡してくれと言われたよ」
 少年がぬっと差し出す鞘を平助は全力を懸けて奪い取った。それを見詰める少年の顔には微かな笑みさえ浮かんでいるように見えた。
「礼くらい言えよ、平助」
 少年は馴れ馴れしく言った。平助は柔和な眉を逆立てた。
「己の方から名乗れよ。気安く人の名前を呼ぶなんて」
 それは悪かったな、と少年は言った。「おれは羽田野弥九郎」
 平助はむっとしたまま、忝い、とだけ言って踵を返した。母が死んだという衝撃は耐え難く。かつ俄かに信じ難い事ではあったが、兎に角此処には居られない。市ヶ谷目指して行くしかない。
 すると、弥九郎は平助の後を追って来た。
「お前、おれがどうしてこの長屋にいたのか、何も訊かねえのか?」
「訊いたところで母上は戻って来ません」
 平助は刀を両手で抱えたまま言う。
「成る程、餓鬼のくせしてしっかりしていやがる」
 弥九郎は笑った。方々で火の手が上ったり、怪我人が運ばれているのに、まるで他人事である。
 ここまで語った時、平助は大きく息をした。何やら気合を入れ直す必要があるのだろう。斎藤は静かに平助の暗い双眸を見た。手燭の光が黄色く点っていた。
「弥九郎は、己を私の異母兄であると言ったのです」

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