(四) 深川・伊東道場
平助の生まれは弘化元年(1843)で、斎藤と同年である。正月一日に生まれた斎藤よりは弱冠幾月か若いことにはなるが。
弥九郎は、それよりも二年前の天保十四年に生まれたという。
「おれの母は、津藩江戸屋敷の奥女中をしていたのよ」
と、弥九郎は伝法に言った。煙管を咥え、着流しで胡坐なぞ、まるで其処らの渡世人気取りである。しかし、髷は銀杏であった。
「所謂お手つきということになってな、おれの生まれる半年ほど前に宿下がりした。実家は川越のほうで、お大尽と呼ばれる芋百姓さ」
鼻で己が出自をせせら笑う。
「母は田舎には戻らず、本所の地福寺という寺で厄介になっていた。すぐにもまた下屋敷に呼び戻されると思ってのことらしい」
平助は釈然としないまま、弥九郎の話を聞いていた。
つい夜中に地震で母を失ったばかりの身の上に、いきなり異母兄と言われて現れられても困惑するばかりだった。
「ところが半年経っても一年経ってもお呼びはねえ。二年目になって漸く産後の肥立ちもよくなり、下屋敷まで出向いたひにゃ、おめえ『お女中は余っております。お引取りください』だとよ」
「酷い話ですね」
平助が相槌を打つと、弥九郎はぎっと光る目で睨んだ。
「おう。ひでえも何も、母はおれを生むためだけに暇を貰っただけだ。しかもおれは和泉守の御胤じゃねえか。冗談じゃない」
それは、平助にはどうとも言えない。
「それから何度か交渉に行ったらしいがよ、体よくはした金渡されて追い返されただけだったときいた」
弥九郎は忌々しげに舌打ちした。恰も己が見てきたかのようである。
「おれが思うに、母を追い出したのは奥方に違いねえ。悋気が強くてお部屋様さえもいびっているという奥方だ。女中の腹など膨らんだからといって大事にしやしねえよ」
「お気の毒だ」
それが和泉守に対してか弥九郎に対してかは、平助自身も定かではなかったが。
「他人事のようにぬかすな。お前もご落胤なのだぞ」
そう言われてはじめて平助ははっとなった。
「けれど、私には父上がおりました。ご落胤なんて畏れ多い事はあり得ません」
「藤堂綱一郎殿か」
と、弥九郎は見知った人物かのように平助の父の名を口にした。
平助の父は、和泉守とは遠い親戚であった、戦国末期から分岐した支流の一派の末裔という。それで藤堂姓を名乗らせて貰っていただけで、決して藩では高禄ではなかった。
昨今の大名家の縁戚関係に比べると、随分と縁遠い存在である。
「失態があって、藩の財政に穴を開け、退いたと聞くが、それ」
と、弥九郎は顎で平助の抱えている刀を指した。
「そのような藩士に餞別として上総介兼重などくれてやろうか?」
平助は初めて、刀の銘を知った。それは、長曾禰虎徹に優るとも劣らぬほどの差料だと弥九郎は言った。
「藤堂姓も剥奪されてしかるべきだというのに、はたまた餞別でないとなると、お前の父は和泉守から差料を盗んだということになるな」
平助は身構えた。弥九郎は、酒を舐めつつ赤い舌を蠢かす。
「さもなくば平助、お前の母はお手付きになって孕み、邪魔になったので綱一郎殿に払い下げられたということだ。ならば口止め料として上総介兼重の一振りくらい決して高いものではなかろう」
次々に弥九郎の薄い唇から吐き出される言葉は、平助の胸を打ち砕いた。
「……では、何故弥九郎殿の母上には差料を賜らなんだのでしょう」
平助は漸く言った。弥九郎は、また舌打ちした。
「判らん。いや、相応の金子を頂戴したと思うが、母が死んだ時には葛篭に十文ほどしか残っておらなんだな。川越の実家が浚って行ったのかも知れん。その時はおれもまだ七つにしかならなかった」
平助は、改めて弥九郎の姿を凝視した。確かに顔かたちは平助と似ている。見たところ、どうせその稼ぎは博奕だろう。初めは気が動転していて素直に弥九郎の言うことも聞いて受け答えしていたが、次第に胡乱に思えてきた。
「では弥九郎殿、一体どうやって私の事をお知りになられたのですか?」
「ああ、それはな」
弥九郎は胡坐から立膝になり、酒を呷った。
平助は、先月より長屋近くの深川佐賀町にある伊東道場に出入していた。北辰一刀流、伊東精一の道場である。弥九郎は、かつて伊東道場に入門していたという或る男から、平助の事を聞いたという。その男は、品行が悪いというので破門されたばかりであった。
「近頃ばかに品がよくて小柄だが筋のいい十三、四の子が入門してきた。そいつがお前にそっくりなのよ。師匠に聞くと、御母堂が仰るにはさる御方の血筋の者だという。貴種の名に惹かれたのではないが、よさそうなので入門させたと」と、弥九郎に告げた。
「おれに似ているとは、間違いねえ。こいつァ同じ穴の狢だと思ったのよ」
弥九郎は、わざと下卑た声を立てて笑った。しかし、平助の目にも、渡世を気取っていても何処か崩し切れぬ武士の風情が弥九郎にはあるように思えた。
話の辻褄も一々合っている。
「母上はそんなことはおくびにも出しておられなかった」
「お前に要らぬ心配をかけまいという親心だろう」
弥九郎は、平助の顔を覗き込むようにして言った。
「なァ、弟よ」
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