(六) 高台寺・月真院
「それから程無く私を見つけ、性懲りも無くつきまとってくるのです」
平助は言った。それが今年の春のことであった。
「弥九郎とやら、上意討ちだと言っていたが」
斎藤は、声を落として言った。平助は軽く頷く。
「あの時言った捨て台詞のことでしょう。私の父が上総介兼重を盗んだと上告し、和泉守様の命によって討ち果たし、奪還するのだというような意味のことを言っていました」
「弥九郎ごとき素性の定かでない者一人にそのような命が下るのか?」
「ええ、全くその通りです。弥九郎の戯言に過ぎません」
そう言って、平助は再び伏目がちに己の膝頭を見た。話し込んでから一刻は過ぎているだろう。斎藤も、眠気はともかく疲労を感じ始めた。
「だが平助。お前が弥九郎に狙われていることは確かだ」
視線を平助の左肩の辺りに向ける。「ゆめゆめ油断するな」と言って、立ち上がろうとした時、平助の右手が斎藤の袖口に伸びた。
「斎藤さん。今お話したことは一切他言無用にお願いします。京に来て以後の弥九郎のことは伊東先生にもお話していません」
平助の黒い双眸が、斎藤を凝視した。
伊東はてっきり江戸で弥九郎とのことは切れていると思っているのだろう。斎藤は黙って頷いた。座敷を出てゆるりと自室へ歩き出すと、漸く人心地がついた。
奇妙な違和感に全身を撫で回されていたような感覚が抜けると、不意に眠気が襲ってきたのだった。
ほどなくして、伊東甲子太郎は先帝孝明帝の御陵墓を守る御陵衛士の任に就くとして、新選組を脱退、独立する。それにあたって実弟・三木三郎や服部武雄ら一派も従い、当然のごとく藤堂平助も西本願寺を出た。
斎藤一も御陵衛士に従った。
といっても事実上の新選組からの脱退ではない。
伊東に請われて「永倉君か斎藤君のいずれかをお貸し願えまいか」と申し出があったればこそ。近藤、土方両人は、渋々了解した。いずれかと訊かれれば、自明の理で斎藤を出すしかない。
永倉は以前、近藤のやり方に不満を覚えて建白書を出したほどの男である。出てくれ、などというとまたその時の遺恨でもあるのかと思われてはかなわないし、第一永倉ほどの真っ直ぐな男を貸し出してしまうと、伊東の思想に染まり切らないとも言えない。
厄介である。
仮にそうなって新選組と一戦交えることになると、相当に手強いだろう。
その点、斎藤は如才が無い。のらりくらりと自己流を貫いて誰に染まるでもなく、近藤に伊東の動きを逐一報告してくれるだろうとの判断である。
要するに斎藤は間者として火中の栗を拾う役を担ったのである。
期待通り斎藤はひょうひょうと過した。思想的にどうのとは語らない。只、不逞の輩から御陵を守る為に存在しているといわんばかりの態度で巡察を行う日々であった。
そんな或る日、斎藤は祗園柳町で飲んだ帰り、羽田野弥九郎とばったり出くわした。
「新選組を抜けたらしいな」
斎藤は弥九郎を一瞥した。「あんたには関わりのないことだ」
「平助は何処にいる?」
斎藤は答えなかった。
平助は今、美濃・大垣周辺を遊説している。無論、同志を募る為であった。
かつて新選組という佐幕の先払にいた伊東は勤皇の旗を殊更に揚げるにあたって、多くの助力を必要とした。生半可に薩摩などに近付くわけにはいかぬ。方々手を尽くして己が勤皇の強い意志を示さんと奔走しているのであった。
「居場所を言えば、弥九郎は必ず平助を追う」と、斎藤は直感した。嘘を言っても仕方ないので、だんまりを決め込むことにした。
「あんたどうしてそれ程までに執拗に追う?」
斎藤は質問をはぐらかすようにして、訊き返した。弥九郎は、斎藤の飽く迄冷ややかな視線を疎ましいもののように避けた。
「おれこそ和泉守様のおん胤であるからだ」
思い込みの激しい男だ、と斎藤は思った。でなくば本当の阿呆か、何かしらの魂胆がある筈。
「兼重が欲しいのか?」
斎藤の問いに弥九郎は首を捻る。
「違うな。この世におれは只一人。二人は必要ない。おれこそが藤堂平助だ」
弥九郎は野性味を帯びた光る眼を斎藤の白面に据えたまま、言い放った。
「寝惚けたことを」
「そちらの方こそ。騙られているのはお前等のほうだ」
弥九郎は血相変えて言った。今までに無い激しさに満ちた顔付きであった。
「藤堂姓を名乗ってよいのはおれだ。あいつの養父、綱一郎を謀って輿入れしたあいつの母こそ川越の百姓の娘。その御蔭で一体如何程おれが辛酸を舐めてきたか」
百年の仇のように言う。
斎藤には弥九郎の言葉は只の言い掛かりのように聞こえた。まさかあの正直で、ある意味穢れを知らぬ平助が、と思う。
「証拠があるというのか」
すると、弥九郎はばっと両手を開いて斎藤に見せ付けた。
「この握り、両の手の平に升掛線。藤堂家の主筋には必ず受け継がれるという」
確かに弥九郎の手相は「升」という字を書いたように真っ直ぐの線で繋がっていた。
まさか実際に和泉守の手相を調べるわけにもいかないが、この升掛線が所謂吉相で、或いは高貴を顕すという俗信があることは、斎藤も聞いたことがある。
「疑うならば、平助の手の平も確かめてみよ。尤も、その前におれが決着をつけてやるがな」
弥九郎はそう言って、去って行った。
半月程のち、八月の下旬になって平助は遊説から帰還した。
「よく歩いたな。日に焼けて男っぷりが上った」
などと服部らは平助を見て言った。斎藤は、遠巻きに平助を見ていた。いつも誰かとは一定の距離を置いて行動していた為である。肌がやや浅黒く焼けた以外は、何の変わりもない。
「だが、何処と無く以前の平助と違う」
そんな気がした。
平助本人はと言えば、斎藤に対して何の屈託もなく話し掛けてきた。
「尾張は勤皇派が優勢で、分藩やその周辺も徐々に勤皇色が強まっています。有意義な旅でしたよ」
「お前はその後、羽田野弥九郎と会ったのか?」
斎藤は、あっさり話の腰を折った。もとよりこういう会話の多い男なので、平助も心得ている。だが、ほんの少しばかり間が空いた。
「いえ」
「嘘を吐け」
と、斎藤はやおら向き直って平助の胸倉を掴んだ。
「乱暴はよして下さいよ。何故そう思うんです?」
平助はもがきつつ、顔を顰めた。
「何となくあれ以来ぱったり月真院にも来ない。京の町で一度も見かけた事が無い」
そう言って、斎藤は平助の襟から手を離した。大息を吐きながら平助は襟元を正した。切れ長の目が庭先に注がれる。
「さすがは察しが早いですね斎藤さん。その通りですよ」
弥九郎は美濃まで追って来た。斎藤は平助の所在を知らせてはいない。
もしかしたら他の衛士が恫喝されて口走ったか、弥九郎が月真院の周囲をうろついているので聞いたのか、いずれにしても辿り着くのは早かった。御陵衛士の看板を掲げて遊説をしているのであるから、見付からないわけがない。
「弥九郎は死にましたよ」
平助は視線を逸らしたまま、ぽつりと言った。
「私を殺そうと斬りかかって来ました。已むを得ません」
「上意討ちを返り討ちか」
「上意討ちなどではありませんよ」
平助は、斎藤の言葉が終わらぬうちから言った。
「あの男があなたに何を言ったか知りませんが、どれもこれも出鱈目です」
日頃のおっとりした物言いに似ぬ、烈しい口調だった。
「己の出自にのみ恃み、何の努力もしようとせずその日暮しを送って、何処かに係累がいると判れば頼って食い潰そうとするろくでなし。兼重が手に入らないとなると、新選組に入った私を追い掛けて来る。ご落胤であろうとなかろうと、あんな男生きる価値もない」
平助はそう早口に言ってから、うっと喉を詰まらせた。斎藤は黙って腕組みをして聞いていた。
「少し言葉が過ぎましたね。すみません」
平助は、奥へ入って行った。
已むを得ず弥九郎を殺害したということへの呵責が平助の雰囲気を変化させていたのか、それとも怒りを燻らせていたのか。兎も角も、弥九郎が今後誰かを訪れるということはない。
(五)へ
(七)へ