第二章 雛の刺客
(一)
膳所藩事件
鴨川の川面に映る月影がしんしんと中空に近付く頃、三本木の殷賑は頂点を極める。
「梅にうぐいすホホンホケキョと囀る、明日は新地の二軒茶屋、今日は西陣上七軒」
三味を弾く手つきもきびきびと渋い喉を唸らせる芸妓に、男が呼び掛けた。
「姐さん、いいのどだねえ。長いのかい」
「いいえ、そうでもござんせん」
芸妓は唄を止めて三味だけを引き続けた。男は少し目を丸くした。
「江戸のお人かい、姐さんは。京言葉じゃあないね」
「そうです。深川の生まれでしてね。色々と故あって京へ来たばっかり。美代菊と言います」
男は腕組みをして唸った。
「ふむ。おれも長いこと江戸詰だったんだがね、一昨年からほら、参勤交代というものがなくなって、江戸に大勢家中の者が居ては経費も莫迦にならんというので、国許へ戻ったのよ」
「まあ、お武家様はどこぞの藩におつとめでござんすか」
「懐かしいなァ、その江戸言葉。背筋がしゃんとするようだ」
男は上阪三郎衛門と名乗った。江州膳所藩の元弓術師範で、公用方につとめているという。年は三十二。
国許に戻って間もなく、京と大津を行き来する職務が増えた。
「京へ来てみれば成る程、世情の乱れ様が手に取るようにわかった。将軍様御上洛という事態も嘆かわしいが、賀茂社行幸に至って、"征夷大将軍"などと声を掛ける不埒者がいたり、毎日のように攘夷だ天誅だと人斬りが行われる」
上阪は盃を呷った。
この男の思いは自分の思いに似ている、と芸妓に扮した琉璃は思った。
白粉と紅の下に表情を隠しつつ、三味を爪弾き続ける。
素人芸だが、こういう時の御役目の為と、琉璃は十七の時から深川の長唄の師匠のところへ通い詰めた。
京へ行くのでお座敷に出たいと言うと、
「あんた筋は悪くないけど、まだまださねえ。色事を知らんからだね。それじゃ、ちょいと不安だけどね。慣れない京言葉は使わずに、普段通りにお喋りなさい。下手なお芝居はしない方が却ってようござんすよ」
念を押されてやって来た。
何度目かの座敷だが、緊張した。掌中はぐっしょり汗を掻いている。
色事といえば、それも生娘とそう変わりない程の経験しかない。
やはり御用の為、と城に上がる前に破瓜(はか)の苦痛を味わった。初登城の前日、母多岐絵に連れられて、桜田御用屋敷へ赴いた。
桜田の御屋敷は、大奥を退いた御中臈などが隠棲する屋敷である。
その屋敷の一隅で、琉璃は尼姿の女達に女にされてしまった。
というのもおかしな話だが、わけもわからず裸にされ、枕絵の類を見せられ、奥女中達が使用しているような象牙の淫具で貫通されたのである。
「何の為ですか?」
と苦痛を堪えつつ訊ねると、元大奥のお女中らはこう答えた。
「琉璃どのはいずれ大奥に男の御役目でお上がりになられると、多岐絵から伺いました。大奥の中は、それはそれは上様のご寵愛を被るあたわざる女子で犇いておりますゆえ、その欲求も募っております」
一生手付かずお清のまま、という女も少なくない。しかし、そのような女でも女同士閨の事を楽しむのである。果たして、それを本当のお清と呼んでいいのかどうかわからないが。
「そなたは男装すると、急度光君の様な美々しい男子になるでしょう。お女中らは黙って見逃しておくわけがない」
「その時は、お慰めせよと」
「まあ、そのような事もあるやも知れませぬ。それにしても、未通女(おぼこ)では、他の男子に紛れておつとめするとなると、のぼせ上がってしまいます」
大奥に出入りするのは当然女だけではなく、御簾中様御用人などの男子もいる。大抵は中年だが、たまに若い用人や庭番がうろつくと、男日照りの女中達は悶々とした目付きで男の姿を追い、手を引いたりするという噂もまことしやかに流れている。
尼姿の御年寄らは、逆もまた然りと言う。
男ばかりの中でおつとめする琉璃が要らぬ気後れなどせぬ様、処女を奪っておくのだと言った。
その後、何度か閨の手ほどきを受ける機会があった。
理屈はわからないでもないが、実際の男と接するでもないのだから、本当に意味があるのだろうかと琉璃は思った。
尤もそれ以後、女同士でも男とも睦み合う機会はない。
「色事を知らんからだね」と、三味線の師匠に言われたのを思い出したか、それとも只の成り行きか。
琉璃はその晩、上阪に抱かれた。
「お前さんは、婀娜な商売に似ず、身持ちの堅い女のようだね」
上阪は、琉璃が身繕いする様子をうっとり見詰めながら言った。
それもそうだ。本当は芸も身体も売ってはいない。それとも上阪は年の割には素人臭いと言いたかったのか。
「そういう上阪様こそ」
遊び慣れた風ではなかった。その癖、女心を擽るようなところがあった。
「お侠(きゃん)だが、抱けば情は濃やかで。そういう女子の方がいい。京女は心が無い」
そう言われると、任務として座敷に出ている琉璃は、些か心苦しい。
「時々こうして会ってくれないか」
上阪は琉璃の項に触れながら言った。少し考えてから、琉璃は秋波を送るような眼差しになって、頷いた。
「出来れば勤皇方の藩士をつかまえたかったが、仕方が無い。この男は公用方だし、情報は入るだろう」
と考えた。それに、悪い男ではない。
琉璃は、もう一度名残惜しむように胸乳をまさぐる上阪の腕に身を委ねた。
そうして何度か逢瀬を重ねた或る日のことである。
茶屋に駆け込むようにして入ってきた上阪の尋常でない顔付きに、琉璃は息を呑んだ。
「如何なされました?」
上阪は肩で息をしていた。
「いや、何でもない」
「追われでもなさいましたか」
琉璃は上目遣いに訊いた。
「女子のそなたには無関係」
上阪は突っ撥ねるようにして言い、慌しく琉璃を押し倒そうとした。厭です、と琉璃は上阪の胸を押し退けた。思いがけない力が出てしまって、上阪は少しよろけて片手をついた。
「申し訳ありません、つい」
琉璃は狼狽した。だが、上阪は「そなた……」と言っただけで、何も追及しなかった。
「三郎衛門様のお身が心配で。江戸者の私には他に身も心も頼れるお方もございません。それに、何より貴方様は――」
言い掛けた琉璃を、上阪は抱き締めた。そうしてくれて、実のところほっとした。格別惚れているわけでもない男とはいえ、口から出まかせを言うことに罪の意識を感じたのだ。
「美代菊、よく聞いておくれ。おれはもしやこの先、無事でいられるかどうか判らぬ」
上阪は言った。
膳所藩邸に戻った後、所用があって藩士らのよく出入りしている料亭へ行った。公用方の会合に利用する為、周旋に行ったのだ。そこで、上阪は或る謀議を耳にした。
「今月十七日に将軍様再御上洛の為、東海道よりお越しなされ、膳所城にご宿泊の予定と相成っている。その折、尊攘派の輩が不穏の計略を企ておると洩れ聞いた」
膳所藩は京に近く、また禁裏警固の任に長く携わってきた経歴もあって、勤皇思想の強い藩である。だが、藩主本多家か、三河以来の徳川家臣として、譜代の地位にあった。
藩内は、佐幕派と尊攘派に二分されていた。
保田信解が尊攘派の中心となっており、数十名らが取り巻いていた。
「その保田らが、上様を暗殺せんと謀を密談しておった」
上阪が聞いた話では、徳川家茂が膳所城に一泊の折、御寝所の天井に釣天井を仕掛けておく、或いは寝所を爆破する仕掛を用意するという計略であった。
「身の毛のよだつ、神をも恐れぬ悪逆の謀議。たとい実行なされずとも、密議を図ったというだけで不敬。暴言の大罪に処すべきだ」
上阪は膝上においた握り拳を戦慄(わなな)かせていた。
恐らく、保田ら尊攘藩士は、長州藩と通じている。今度の長州征伐を不服に思い、攘夷が決行されるには将軍を亡き者にするしかあるまいと思い詰めたのに違いない。
而して、実際に幕政に多大な権限を持つでもない将軍を暗殺したところで無意味である事など、彼らには考え及ばないのか、と琉璃は思ったが黙っていた。上阪から打ち明け話を聞かされた時から、もう心臓はばくばくと早鐘を打っていた。
「この事を疾(と)うお報せせねば。いや、誰に?」
琉璃の頭の中ではそんな事ばかり巡った。
上阪はそして、
「おれは今より所司代屋敷にお伺いし、保田らの謀略をお耳に入れようと思う。済まぬが失礼する」
琉璃の肩から手を離した。
「お待ち下さいませ、三郎衛門様。その後は如何なされます?」
上阪は、ふと怪訝な表情になった。
「わからん。謀議が嘘か真か。もし首尾よく行けば、膳所城での御一泊は中止。藩は危うきを免れるであろうし、おれが幕府に密告したと奴等にばれれば、命を狙われるやもしれんな」
「ご無事を」
琉璃は頭を下げた。
上阪が茶屋を出た後、自分も着替え、羽織袴姿になると、聖護院村のさらに北東、黒谷金戒光明寺へと走った。見るからに鬱蒼と、まるで天然の要塞の如き黒い森の中に城の様な境内が広がっている。
「当方、御広敷用達・別所伊織佑豪と申す。火急の件にて会津中将松平肥後守様にお取次ぎ願いたい」
琉璃が門前から申し出たもので、奏者番は吃驚した。御広敷用達というと、幕府の官吏それも御庭番。まさか偽りか冷やかしか、と門番は訝った。
「そこもと、まことに幕府の使者か?」
「たわけ。当方の言説は大老酒井様のお言葉。ひいては上様の御命ぞ。肥後守様には何を差し置いても面談して頂く」
こうなるとはったりかました者勝ちである。
奏者番は恐れ縮み上がって、松平容保に報告した。
やがて、奥の書院で面談をという事になる。
「そなたが別所殿か。面を上げられよ」
容保に許されて、琉璃が顔を上げると、小さくあっと声が漏れた。女と気付いたのだ。そうして、気品ある笑顔を作った容保は言った。
「成る程、上様から伺っておったがそなたが男装の御庭番。して、急用とは?所司代を抜かして敢えて黒谷まで来られるとは、余程の事であろう」
と、唇を引き結んだ容保の表情が険しさを増すに、ものの四半刻も要らなかった。
「膳所藩尊攘派の企み、聞き捨てならん。伊織どの、そのほう何方よりこの謀略を知った?」
「同藩士、上阪三郎衛門より聞き及びました。上阪は所司代様へ上告に行きました。おって所司代様から伝令が参りますでしょう。次いで、お願いしたき事がございます」
「何じゃ」
「上阪の身柄を保護してやって頂きとう存じます」
琉璃は再び、頭を下げた。容保は承知した、と頷いた。
それが為に黒谷まで来たのである。
所司代は人員が少なく、その余裕がないと見た。
上阪の情を感じたというよりは、主君に誠忠を見せようとする士に対する返礼をしなければと思ったからだ。
琉璃は、黒谷からの帰途、一つだけ不安を考えた。
「さて。危急のこととして川村や古坂に告げる前に肥後守様に御報せいたしたが、それでよかったのかどうか」
果たして、京都守護職・松平容保の通達により、
「膳所藩士・保田信解その他の者どもが長州藩と通じ、不穏の企てをしておるゆえ、将軍の膳所宿泊は見合わせる」
と、膳所藩主・本多康穣(やすしげ)には告げられ、守護職、所司代、新選組の出動で京の七口及び追分、志賀越、大津宿に至るまでが包囲された。膳所藩では、首魁の保田た数十名が捕縛され、投獄されたのだった。
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