第二章 雛の刺客
(二)
大坂城の一夜
閏五月十八日、将軍家茂は無事大坂へ入城した。
二十二日に洛中へ入り参内、再びの長征を奏上する事となった。
参内を済ませた後、家茂は琉璃を大坂に招じた。
その時だ。くらわんか餅の話を家茂から聞かされたのは。
将軍直属の御庭番とはいえ、直答することなど有り得ない。龍顔を直視することも畏れ多い。その家茂から語りかけてくれたというのが、何よりの名誉といえた。
「そなたらが膳所藩士らの動きを告げてくれたそうだな。肥後守から聞いている。よくぞ、遠国御用果たしてくれた。感謝している」
これだけの御言葉でも、単なる直参の琉璃にとっては眩暈がする。
しかし、御役目に就いているのは川村主馬も古坂伝九郎も同等であるので、琉璃は恐縮した。己のした事は、抜け駆けだと取られても仕方が無い。
「いえ、それがしなどは」
言い澱んだ。それも上阪三郎衛門の決断あったればこそで、己には褒めて貰う資格などないという気がした。
気後れしている琉璃を、もじもじと照れていると解釈したらしい家茂は、立ち上がって平伏している琉璃に歩み寄った。
「堅苦しうなるな、近う」
はい、と答えて面を上げると、家茂の顔が間近にあった。家茂は、
「そなた冨田流の免許皆伝と聞いた。後で短刀を贈るゆえ、家の者に伝えておくがよい」
と、にっこり笑った。
家茂は琉璃の顔をじっと凝視してから、小声で言った。
「化粧をしていない女子をじっくり見るのは初めてなのじゃ。女子は白粉など付けずとも、十分美しいのに。それによい香がする」
言われて、どぎまぎした。おつとめの間はつとめて所作も男らしく大股に歩き、てきぱきと動く事を意識もし、板について来たと言われるようになったが、思いがけぬ事を家茂から言われようとは。
「琉璃、今宵寝所へ参れ」
琉璃は言葉を失った。守護職屋敷では朗々と口上を述べる度胸はあるのに、まったくもってこういうのは困惑した。
将軍であれ足軽であれ、相手は男なのだから大差無い。真っ先に思い至ったのは、
「宮様に申し訳ない」
であり、何とも返答の仕様がなくなってしまったのだ。とはいえ、御庭番は将軍の耳目として直属の臣下なのだから、否応あるまい。間諜任務とは異なるといってもだ。
まして、家茂に悪意などある筈もない。
たまたま目の前にいた女を賞翫したいと欲しただけで、琉璃を物珍しく思っただけだ。
「上様は確かに御上洛このかた、ひと月程女人に接しておられぬし、お若いのだからやむを得ない事。それに、私もまだ宮様の御用人になったわけでもない」
此処は西の丸ではない。宮様は勿論、御年寄も誰の目もない。
琉璃は再び畳の目に視線を落として、「はい」と小声で答えたのだった。
数日後、京に戻った琉璃は、将軍東帰を待って、酒井雅楽頭より遠国御用解任の通達を受け取った。川村主馬、古坂伝九郎も同様である。
男装に戻って旅仕度を調えている琉璃の前に、長い影が伸びた。
それが、川村主馬のものとわかるのに顔を上げる必要もなかった。
「おぬし、大手柄だったな」
明らかな嫌味を気にも留めず、琉璃は草鞋の紐をきつく結び直した。
「手柄など、我々は幕府と上様のおん為によかれとおつとめしているだけだ」
ふん、と主馬は鼻で笑った。
「利巧ぶった事を。確かにおぬしには、わしらに出来ぬ秘中の秘策があろうからな。そいつにゃ勝てまい」
琉璃がもう一方の紐を結ぶ為に顔を上げると、主馬の皮肉に満ちた黒い笑みが映った。
「女子は男子より穴が一つ多い。しかも、その穴は城をも傾く威力を持つようだ」
下卑た事を言う。が、事実であることは間違いない。琉璃は、唇を歪めた。
「それが如何した。利用出来るものは何でも利用するのが、我々の真骨頂ではないのか。女子がどうのを仰るならば、男の威力も使うてみればよい」
主馬は琉璃が言い終えるや否やで、その襟元を掴み上げた。
「上阪も身体でたらしこんだ口か」
「上阪を知っているのか?」
おう、と主馬は答えて白い犬歯を剥き出した。
「知っているも何も、所司代屋敷から出て膳所藩邸へ戻ろうとしておったのを、斬られたよ」
「なに」
「尊攘派の奴等に見付かってな。右往左往しているところを」
「膳所藩士がか?」
いや、と主馬は首を振った。
「斬ったのはおれだ」
「おのれ」
琉璃は主馬の手を振り解いた。
「斬らねば、疑いをかけられるのはおれのほうだった。おれは膳所藩士に限らず、尊攘派と交流し、奴輩らの働きをさぐっておったのだからな」
半ば怒りに満ちた目で、主馬は琉璃の双眸を見据えた。
己も所司代に赴いていればよかったのだという後悔はあれ、任務をしくじったのではない。琉璃は己の心にそう言い聞かせ、主馬を睥睨しつつ、刀の柄から手を離した。
上阪の命運がそれまでだったという他に、言いようが無い。
「青臭いぞ、伊織」
主馬は吐き捨てるように言った。
「おれはおぬしを買い被っていたようだ。おぬしの兄よりは、多少骨のある奴かと思うていたが、所詮女は女か」
主馬は嘲るでもなく、冷淡そのものの口調で言い捨て、飄然と去って行った。琉璃には反駁の余地はなかった。主馬の言う通りなのではないかと思ったからだ。
「――京には余りいい思い出がない」
琉璃は、伏見の船着場に上がって、立ち並ぶ船宿の軒を眺めつつ歩いた。
上方御用から戻って間もなく、琉璃の身分は御簾中様御用人に取り立てられた。
正式に大奥勤めとなり、布衣(ほい)の官位となる。慶応二年従五位下豊前守に叙せられ、別所家で過去最高の官位、禄を頂いた。皮肉な事に、それは家茂の死後三月後の十月で、和宮の口添えがあったからに他なからない。
琉璃の手元には、家茂から拝領した短刀が残った。こればっかりは、瓦解の時番町屋敷を引き払い、家財を売っても手放すわけにはいかなかった。今回の京都行きにも携行している。
「人は逝けども物は残る。それも、やがて風雪に耐えずなくなるのだろうけれど」
第二次長征の途中、陣没した家茂が小さな位牌になったのを見た時、琉璃は手を合わせつつひっそりと哀惜を味わった。
和宮の悲しみに及ぶべくもないが、主を失ったというだけではない、別なる悲観が湧いたのは確かである。
大坂城でのあの夜、確かに琉璃は家茂の寝所に上がった。
が、主は琉璃に接する事は無かった。
「一晩、化粧をしていない女子を眺めていたかったのだ」
と、家茂は言った。それだけのことである。その時は、琉璃は不審に感じた。もしかしたら、体調が悪しく、女子を抱ける状態ではなかったのかもしれないと思いつつ、御寝所でまんじりともしない一夜を過ごした。
ただ、時折その後宮の顔を見て複雑な気分になることはあった。
「今はとまれ、宮様の御用を優先しなくては」
伏見街道を北上し、東福寺の辺りまで来た時、琉璃はふと胸騒ぎを覚えた。
寺の門前町に屋台が二、三台並んでいた。時刻ももう午後の鐘を六つ聞いたから、陽も傾きかけてくる頃だろう。
もう拝観の人も去ったし、屋台も仕舞って帰るのに違いない。最後に行き過ぎようとした飴売りの老爺が振り返った。
「もうし、ねえさん。お連れはんがおいでのようやけど、迷わはったらあきまへんえ」
「連れ?」
琉璃は訊き返した。一人旅に同行者はいない。
「へえ、つい今し方、三人の人が通り掛かって、二十五、六の背の高い女子はんが来はったら教えてくれ言うて。道はあっちどす」
爺さんは四つ辻の西を指差した。
「間違うてたら、すんまへん」
どういう意味かわからないが、「いえ」と琉璃は御辞儀をして歩き出した。
門前町を通り過ぎると、昼間は屋台が幾らか出ている為に人気もあって、原っぱは踏み叩きになっているが、少し横手に入ると茫々と青草が生い茂っている。祠が見えた。
ついこの間も雨が降ったばかりで、草丈は人の背程にもなっていた。
祠を横目に見つつ、琉璃は帯に挟んだ短刀に手を掛けた。
草叢の向こう、祠の裏へ出て、琉璃は立ち竦んだ。四、五間離れたところに男の影があった。
手に杖をついており、顔は見えない。黒い頭巾が、男の両目のみを残して覆っていたのだ。
だが、何とはなしに覚えのある気配が立ち上っていた。
「やはりな」
くぐもった声が頭巾の下からそう呟いたようだった。琉璃にははっきりと聞き取れなかったが、声と同時に杖から一条の銀光が迸った。仕込杖と判ってしまえば、琉璃は遠慮なく短刀を抜ける。だが、すぐにはそうしなかった。
「どうした、抜かんのか」
相手は確かにそう言った。じれている。此方が観察している事に、苛立ちを覚えたらしい。
「女子に向かって抜けとは無粋な」
琉璃は小さく独りごちて間合いを詰めた。男は、刃をかざす。
「どなたか存じませんが、刃を向けられる曰れはございませんもので。もし、お知り合いでしたら、お顔をお見せ頂きたいのですが」
「斬られたいのか女」
男の恫喝にしめたと思い、琉璃は短刀の柄に手を掛けた。
「あら、最初っから斬るおつもりだったのじゃあないんですか」
と言うが早いかで抜き放つ。ぱっと火花が散ったが、それは刃と刃の合う光ではなかった。男は後ろに退いたが、避け切れず頭巾を裂かれて目を剥いた。初めて見る顔だ、と琉璃は思った。
ますます怪体な。
「うっ、ううっ」
男は具合悪しく鼻の頭まで尖先で裂かれたらしく、血みどろの顔面になりながら、二太刀を仕掛けてきた。構えからして道場剣ではなく、そこそこの実践剣のようである。
「居合いの二太刀は恐るるに足りん」
男は咆えながら、突っ込んで来た。峰で受けると見せかけて、背中を退く。大刀ならば次の手で胴を横薙ぎに出来るが、短刀ではそうもいかない。胸元にそのまま飛び込んで刺す。
だが、手応えが違った。
「鎖帷子を着けている」
この御時世にだ。これはいよいよ、只の刺客とも与太者とも思われない。琉璃は瞬時に下がった。下がりつつ、男の手の甲を突いた。ぎゃっと叫んだ男は逃げもせず、琉璃と睨み合ったまま、ぐるぐると三、四度距離を隔てて廻る。
「おのれ、女」
男は顔の下半分を真っ赤に染めて凄愴である。ふと、その数間向こうにもう一つの影が見えた。
その刹那、琉璃の注意が逸れた。
「おい」
遠くの影が短く血だらけの男を呼んだ。脅すでも叱咤するでもない、その暗い声に、男は犬の様に反応して振り返った。佇む影はそれきり声も出さずに遠ざかる。
男もそれに従う事にしたらしい。口惜しそうに琉璃を振り向きつつ、頭巾で鼻頭を押え、ももんがの如く飛び走って行った。
琉璃は、どっと額に浮き出た安堵の汗を拭いつつ、前途の多難を案じたのだった。
「宮様の御用に刺客とは、一体どういうことかしら……」
(一)へ
(三)へ
小説目次へ