第三章 京の雛
(一)
鍛冶橋門下の陰謀
藤田五郎の京都出張を聞いて、躍り上がったのは松平定敬であった。
彼はこのところ本郷の自宅に籠もりっきりで、悶々としていたので、藤田の訪問を受けてにんまりとした。
「秀八、京土産は何がよい?」
と、こうきた。家令の松浦秀八は、悄然となった。諦める他無い。定敬のふらふら癖は今に始まったことではない。その故に、奥方の初子が不憫と思い遣りつつも、初子のほうも半ばどうとも感じていないのかもしれない。
とにかく、養子に入ってから十数年、公私共に座布団の暖まらぬのが常らしい。
「しかし、何という名目でお留守にされるおつもりで?」
藤田が訊くと、「命の洗濯だよ」と定敬は返していた。恐らく誰も誰もこの人の真意を掴もうとは思わないだろう。
とまれ、定敬はかつて己が執政を握っていた京に物見遊山に来たのである。
「呆れた」
琉璃はそう言うしかなかった。
「何を言うか。あのあと市兵衛町の宮様のところをお訪ねし、よくよくお話を聞けば事情もわかったので、おれも一肌脱いでつかまつろう、とやって来たのだぞ」
定敬は胡坐を掻いたまま、憤然として言った。
「それは口実に過ぎませんよ」
藤田が茶々を入れた。
「しかし流石に頭の中が冴え冴えとしていらっしゃる。宮様の御名を出せば、どなたも抗えませんので」
定敬ちゃっかりと宮から小遣いまで頂いたという。琉璃は溜息を吐いた。
「呆れて物が言えんというつもりか。宮様からの仕度金だと言って松浦に見せねば、どうにもあ奴も得心がいかんだろうと思っての事だ。東京に戻ったらお返しする」
一息入れたところで、女将のちせが麦茶を運んで来た。
藤田は如才なく、
「いやはや有難き馳走に存じます。不粋な東京者にて御迷惑をお掛けいたすかもしれませんが、何卒宜しう」
ちせは、ほほと笑った。
「ご丁寧にすんまへん。えっとお泊りは其方の旦那様だけどしたやろか」
「然様。私は別の旅館を使うようにと上の者から言われておりますので」
どういう事だ、と瑠璃は藤田を睨んだ。が、藤田は無視している。
「では御部屋は松の間を用意しましょか。あっちのほうが広うおすさかいに」
藤田は、あああと手を振った。
「此処でいいんです。琉璃さんと同じ間で。その代わり丁重にお持て成しお願いしますよ、何分一寸前まではとても偉い御方でしたので」
一寸前まで、は余計だろうがそれは藤田のささやかな意趣返しらしい。結局そのような事にされてしまって、ちせが退出しようとした時、はたと振り返った。
「すんまへん。お気を悪うなされてはあかんのどすけど、其方様には何処ぞでお会いしたことがあるような」
定敬ではなく、藤田を見て言う。
「はて。私は東京は初めてですが」
と、藤田が何食わぬ顔で言うのを、定敬は噴出しそうになった。藤田は如何にも真面目な顔付きである。
「そうですか。えろう申し訳ありませんでした」
ちせは二、三首を傾げて去って行った。
藤田は襖が閉まるや否やで、ほっと息を吐いた。
「いやあ、やれやれ。おれが昔此処を御用改めに入ったなどと気付かれては肝を冷しますよ」
「大丈夫ですよ。此方の主夫婦は幕府方の隠密を贔屓筋にしてますから」
琉璃は笑いを噛み殺した。
「そうでしたな。それにしても何とはなしに、京という所はゆめゆめ油断ならない気がして」
と、藤田は照れ隠しに口迅に言った。
「それはおれも同じさ」
定敬は、機嫌良さげに扇子をそよがせている。
「京では表向き、おれは東京の貿易商社の頭取で、藤田は番頭ということにしておくから」
好きにすればいい、と琉璃は思った。
思いつつ、飽く迄自分勝手に物事を進める定敬を見て、何だか心の底の波が凪いで来たように感じた。
「それよりも、気になったのは川路の言う闇の動きとやらでな」
定敬は扇子を片手で器用にたたんだ。
川路は同じ薩摩閥で北海道開拓長官の黒田清隆と近い関係にある。
黒田は元の名を了介と言って、かつて北越戦争では東北諸藩、桑名藩、幕府脱走兵らを苦しめた薩摩海軍の参謀であった。
その黒田と犬猿の仲にあるのが、長州出身の山県有朋(狂介)と井上馨であった。
井上は、今は野にある。というのも、時に明治四年、大蔵大輔だった井上の尾去沢(おさりざわ)銅山競売の件で、汚職疑惑が持ち上がる。それを追究したのが、司法卿の江藤新平だった。
江藤は佐賀に去って叛徒とされたが、野に下った井上は窮地を脱し、今は虎視眈々と復帰を狙っているのだという。
「黒田卿が井上を嫌っているのは明らかな事実ですが、川路大警視もまた嫌っておいでですのでね」
藤田は冷めた口調で言った。
「川路は口にこそせなんだが、どうやら広沢真臣を殺したのも井上ではないかと考えているらしい、な藤田」
と、定敬。藤田は肯定した。
「のみならず、江藤失脚も西郷の帰郷も何かつながりはないかと」
「それはどうだか。とにかく、八岐大蛇(やまたのおろち)が素戔鳴尊(すさのおのみこと)を飲んだと思いきや、今度は互いの頭を叩きあっているというやつさ。岡目八目で見れば、滑稽この上ない」
自嘲気味に言う定敬は、また扇子を閉じたり開いたりして弄んでいた。
数年前までは、その政権争奪戦の渦中に定敬自身が投じられていた。中にいる人間は無我夢中でも、弾き出されて蚊帳の外から眺めてみれば、甚だ莫迦らしいと思う。
「でも、それと藤田さんの京行きが何か?」
琉璃は不審に思った。
「井上は前回のようなことがあるので、野にある今のうちにいろいろと始末を付けておきたい事でもあるのらしい。密偵が警視庁を嗅ぎ回っているというのだ」
藤田に代わって定敬が答えた。
「警視庁を探って、我々が調べている事件に裏から手を回し、握り潰すつもりですよ」
それこそ暗殺と金の力で、と藤田はおもむろに嫌な顔をした。
「広沢の事件だけでなく、御一新前のことも」
「薩摩の人間に協力する気にはなれんが、井上の裏の動きは看過出来まい。事によると、近い将来幕政に関わったことのある人間がいわれ無き泥を被らんとも限らないだろうし」
定敬はそう考えて、藤田に同行したのだという。つまり、かつて幕府方だった人間に口封じをして、これまであった幾つかの事件を適当に擦り付けていく可能性があるというのだ。
「それと関係するかどうかわからないけど」
琉璃は、先日東福寺で覆面の男達に襲われかけた話をした。
すると藤田は、
「間違いありません。そ奴らが、我々を嗅ぎ回っている連中ですよ」
二重瞼の目を細め、考え込むように腕組みをする。こうしていると、如何にも往年の新選組組頭の姿が思い浮かぶ。
「でも、理由がわかりませんわ。藤田さんを付狙うならともかく」
「心当たりはありませんか?」
「宮様の雛人形と関わりがあるのかしら?」
「実はその雛人形には重大な意味が隠されているのかもしれない」
定敬が言った。
「昭徳院様が御注文なさったのは、もう十年も前の事なのに」
琉璃は首を傾げた。
「考えてもみなよ。宮様がわざわざ君に雛人形を探してくれ、と仰ったのだ」
定敬は噛んで言い含めるように言った。
探すだけなら別段、女官達でもいいし、山岡鉄舟だって傍にいる。琉璃に頼んだというところに何かの大きな意図が含まれているのは当然だ、というのだ。
「危なっかしい仕事というわけですか。宮様は、私を御庭番だったと御存知ではないと思うのですが」
「そんなの、山岡がとうに喋ってるさ」
そうでなくとも静寛院宮自身も薄々妙に思っていたかもしれない、と定敬は言った。
「何はともあれ、雛人形探しが先決ですかね」
藤田は唸った。
「それが殆ど手掛かりなしで」
「仕方が無い。ゆるりとやろう」
定敬は他人事の様な暢気な口調で言い、麦茶の飲み干した。
それから三人で夕餉を食べて、半刻程語らってから、藤田は『安井』を出て行った。
刺客が京の街をうろついているのなら、藤田を一人にするのも危険ではないかと琉璃は思ったが、
「いや、却って一人の方がいいんですよ。人目があると、正体を隠す。正体を現さん刺客はやり難いですよ」
と、藤田は笑って手を振った。
「それと。御前様はほんとは琉璃さんの事をひどく心細がっておいでで。ま、男なんて皆そういうもんです。仲良くおやんなさい」
「からかっていると、いつか刺すわよ」
「おお恐わ」
笑いながら藤田は足早に去って行った。どうやらこの男は定敬が普通の男らしく女の前で斜に構えてみたり、へどもどする様を見たがっているようだ。
外の夕闇がすっかり暗さを増した。墨滴をしたたらせる様な黒い空に、真綿に似た薄い雲が掛かっていた。
琉璃が湯を貰って戻って来ると、二階の間では定敬が静かに書き物をしていた。
「こっちへおいで」
振り向き様に琉璃は腕を掴まれ、引き寄せられた。両脚を開かせて、膝へ抱き上げる。
「御前様。あ……」
「少し痩せたようだ。夏痩せかい」
定敬は浴衣の八口(やつくち)から左手を差し込んで、乳房を揉みしだいた。
浴衣のままで、琉璃は貫かれた。熾き火を揺さぶるような夜のむっとした空気の中で、殆ど言葉もなく。定敬の愛撫が静かであればあるほど、琉璃は飢(かつ)え昂ぶった。
「この人は、私の胸中の何もかもお見通しなのではないか」
という慄きが湧き上がる。
ずっと前、まだ儀礼的な関係だった頃、「いつかこの優美な手指で、己の身体を余すところなく責められてみたい」と思った瞬間に、その淫靡な夢想が定敬に伝わったのではないか。
定敬が琉璃に寄せた狂おしい気持ちを押し殺した恋の歌は、あれは実は琉璃自身の心を逆映しにしたものではないか。そう思えた。
終わってから、
「申し訳ありませんでした」
「何が?」
「この前は御前様に失礼な事を」
「覚えていないよ」
おれは何でもかんでも己に良くない事は忘れる、と定敬は言った。琉璃は浴衣の裾を直しながら、横座りになって、定敬の背に触れた。浴衣の薄地に少し汗ばんだ肌を感じた。
「私ときたら、柄にも無く一寸おっかなびっくりなんです」
「どういう事だい」
「言えません」
抱かれる度に肌がなじむ。それにつれて情が濃(ま)すことが、そこはかとなく怖ろしい。
「じゃあ言わなくていいよ」
突放すでもなく柔らかい抑揚で言い、定敬は琉璃の肩に腕を回した。
「折角命の洗濯に来たんだ、野暮は言うまい聞くまい」
簾を上げて窓から見る鴨川の縮緬のように波立つ水面には、半月が艶かしく傾いて映っていた。
月が満ちて行くには、まだ少しの日数が必要だった。
「少し飲もうか」
「はい」
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