第四章 雛の秘密
(三)
東京のお内裏様
「まあ、可愛(かい)らしいお雛様やわ」
静寛院宮の頬が紅に輝いた。紫の袱紗の上に桐箱、そしてその中に唐紙、油紙、土佐和紙と厳重に包まれた菓子雛があった。
一対の内裏雛をそれぞれ乗せているのは、特注の漆黒の台座である。
「お菓子で出来とうやなんて、思えません」
宮はうっとりと台座を手の上で回して眺めた。黒髪の一本一本、滑らかなまさしく餅肌の光沢、十二単に描かれた文様。龍と鳳凰、春草の数々はまことの西陣織に似て煌びやか。金箔や銀糸も施されている。
「男雛はんのお顔も昭徳院様に似てお出で。こなたもえろう別嬪に作って貰うて、ほんにうれしゅうおざります。女子に生まれてよかった」
「ですが宮様。それはお召し上がりにはなれませんよ」
定敬は些か心配になって言った。
「越中に言われいでもわかっておるぞよ。勿体無うて、噛り付くなぞ及びませぬ」
宮はややむっとしたが、また雛に見入ってにこにこと笑んだ。
「お手柄じゃったの、おるう。流石じゃ、おるうはこなたの妹分」
「いえ、お恥ずかしい限りで」
琉璃は首を振った。隣の定敬が肩を竦める。
「晴山公にお教え頂かねば、菓子雛だとは一向気付かなかったのです」
「おるう、越中は道楽半分で京に行ったのじゃ。そう男を立ててやる必要もあるまいに」
「宮様、その仰せはちとあんまりかと」
定敬が茶々を入れると、宮は声を立てて笑った。
「言うてみただけじゃ。そなたらが仲良う京を旅しておったのが、一寸憎らしい。妬けるでのう」
「はあ」
実際はそんな生易しい道中でもなかったのだが、と定敬は思ったが。
「けど、ほんまにおおきにありがとう。こなたもこれで思い残すことはおざりません」
宮は二人に向かって深々と頭を下げた。その宮が涙洟を啜る音が微かに聞こえた。
麻布市兵衛町の屋敷を後にして、定敬と琉璃は歩き出した。
夕闇が直ぐ其処まで迫っていた。夕餉の時刻を気にして、子供らが路地を駆け去って行く。
「宮様はあの事にお気付きになられますでしょうか?」
琉璃の方から定敬に話し掛けた。
「さあ、お分かりでないと思うが。お分かりでない方がいいんじゃないのか」
定敬は立ち止まって言った。
八代目清武は、菓子雛の留書に指定されていた黄色を出す為の薬品、雄黄を入手する事が出来なかった。山本屋喜八郎こと古坂伝九郎が殺された為である。代わりに梔子の実を使った。
「雄黄というのは、漢方の強壮薬、保存薬の一つなのです」
琉璃は鳳来屋でそう説明した。
「但し、これは劇薬ゆえに、一度に多量に摂取したり長期に渡って服用すると却って身体を損ねる事になりかねません」
雄黄は鉱物の一種で、文字通りに黄味を帯びた褐色をしている。砒素化合物である。この時分、砒素という劇物の知識は広まっていなかったが、少量の砒素が人間の肉体に有効であることは経験上伝わっていたようである。
「えろう薬物にお詳しいんですな」
八代目は感心して言った。それも元御庭番ゆえに、とは言えなかったので、琉璃は苦笑いするだけだったが。
「強壮剤である雄黄を敢えて使うようにとのご指示ならば、昭徳院様はこの劇薬のことを御存知だったわけです」
琉璃の頭の中で、望ましくない想像が巡らされていた。
第二次長征の為に大坂に逗留していた家茂が、いつの頃から健康を損ねていたかは、琉璃にははっきりと判らない。
定敬が知る限りでは、上京前から具合はそう思わしくなかったとも言う。
元々蒲柳の質で、脚気に悩まされていたところへ再びの上京、目まぐるしい政情の変化で家茂は心身ともに痛めつけられていた。
そこへ、誰が勧めたものか強壮剤として漢方の雄黄を飲用したのである。
少しの砒素化合物は身体を活発にする。これが功を奏して、一時は爽快となった。すると、雄黄を常用するようになる。常用すると、砒素中毒の症状が現れてくるのだ。
「無味無臭で、煎じると美しい黄色が出るのです。いろいろお試しになったのかもしれません」
「しかし、誰がその薬を献上したのだろう?」
定敬は首を捻った。御典医の松本良順ではない。彼は理知的、開明的な見解の持ち主で、無闇に素性の知れない漢方薬を勧めるとは思えない。
贈答品であるならば、陣中見舞いは余りにも多過ぎて見当も付かない。
「公卿あたりなら出入りの薬屋などから知れるでしょう。唐渡りの物となると、何処まで遡る事が出来るか判りませんが」
と、琉璃は言った。
「いや、詮索の必要はあるまい」
定敬は低く答えた。
この時、八代目鳳来屋清武と藤田も同じ席にいた。そうして、清武を除く三名が考えたことは、ほぼ同じだったろう。
「――刺客の本来の目的は、私を葬り去るのではなく、菓子雛を作らせまいとすることだったのですね」
琉璃は夕映えを見遣りつつ、呟いた。
「八代目が留書を見付ければ、雄黄の存在に気付く。元御庭番のきみが雄黄の毒性に気付かないわけがない。そうなると、己らの悪事が天下に知らしめられる可能性があるからな」
膳所藩事件以上に此方の方が重大である。将軍暗殺未遂どころではない。
もし、本当に何者かによって有毒の雄黄を将軍に服用せしめたと証明されれば、の話だが。
「暑い盛りゆえに御遺体の痛みも早かろうとて、江戸に到着早々荼毘に附されてしまった。今となっては、本当のところは誰にも判らん」
定敬は振り返った。
「私を付狙ってきた刺客を送り込んだ者というのでは、証拠にはならないのですね」
「それは藤田や川路に任せるより他ないだろう。とはいえ、藤田は兎も角川路は其処まで信用していいとは思わんが」
薩州閥と長州閥の争い上、刺客の黒幕と対立しているだけで利害関係が変化すればまた彼らは如何様にも動く、と定敬は考えていた。
琉璃は、言った。
「昭徳院様は御自身が脚気のみならず、得体の知れない毒に冒されていることにお気付きになられた。だが、既に手遅れだった。その事を雛に託して宮様にお知らせになろうとなさったのでしょうか」
ゆえに、わざわざ七代目清武に雄黄を使うよう指示したと考えてよいだろう。
聡明な静寛院宮なら気付く筈である。海路を使おうと、たとい陸路で半月かかろうと菓子雛が腐臭を放っていない事の異様さに。雄黄のもたらす防腐効果である。
此度、八代目清武が拵えた雛には全体に膠を溶いたものを薄く掛けて固めてある。
無論、食用の為ではないからだった。
「己を害した物をさりとはとげとげしく言い立てず、密かに宮様への贈物に託される。成る程、昭徳院様らしい。しかも愛らしい雛人形だなんて」
定敬は微笑した。何処と無く物寂しげな笑みではあるが。
「おれも見習うべきだろうねえ」
「ご無理はなさらないほうがいいんじゃないのですか」
琉璃は、定敬の顔を覗き込みながら笑った。
「どういう意味だい」
「御前様は敢えて御気取りにならないほうが、らしくって。その方が急度皆さん楽に決まってます」
「言ってくれるじゃないか」
と、定敬は琉璃の手首を掴んだ。あ、と琉璃は声を上げる。痩身といっても男の握力だ。
「なあ。初子がきみに、家に入って欲しいと言うんだ」
琉璃は一瞬呆気に取られた。
「この間は勝手に訪問して悪かったとね。あれは若いが、体がそう丈夫でもなくて、出来ればきみが家に来てくれると安心する、と言って」
それは初子の好意と考えてよいのだろう。
初子は大名の娘として、夫に側女の一人二人いようが妬心を持たぬよう、またその心を抑えるよう教育されている。それは、身分の差こそあれ、直参の娘の琉璃とて同じだった。同じであるゆえに、初子が琉璃に共通項を見出したのかもしれない。
琉璃は、ほんの短い間にそんな事を思い巡らせた。
「あの」
と、琉璃は珍しく伏し目勝ちになった。
「出来ません」
「いやか」
「そうではなくて」
琉璃が両手に力を込めると、定敬は離そうとせず、余計自分の胸元に引き寄せた。
かつての同僚川村主馬が敵となって目前に姿を現したように、今後いつまた琉璃自身に刺客の手が伸びるとも、恨みを抱く人間に命を狙われないとも限らない。
何といっても旧幕府の裏事情に精通し、或いは明治政府要人の急所に触れたことがあるかもしれない元御庭番なのだ。
過去はもいいずれ流れ去って行くと信じたい。
だが、今回の事件において、まだ柵は続いていると痛い程思い知らされた。
「奥方様にも御前様にも、御迷惑をお掛けするわけにはいきません」
いつ何時、松平家に累が及ばないとも限らない。
「それを言うなら、おれも随分と憎まれている筈だ」
「でも、これは私が決着をつけねばならない問題です」
琉璃はきっぱりと言った。
「それまでは、どうぞ私に時間をお与え下さいませ」
「そうなのか。わかった」
定敬は悄然と呟いて、手を下ろした。納得してしまえば何の屈託も無い。その明快さが、実に定敬らしかった。
琉璃はその晩、久し振りに源清麿の手入れをした。
「確かにもう人斬りなどしたくはない、そう思った筈なのに。いつまた誰かを斬らねばならなくなるのかと考え及ぶと、今はまだ……」
真に大小を捨てる事が出来るその日までは、と思う。
後日。庭のおしろい花は大半が開き切って、実を結び始めていた。水を撒いている琉璃を、おたつの声が呼び止める。
「お嬢様あ、また大丸から届き物ですよ。何です、今日は桐箱に入った物が」
おたつがいそいそと大きな箱を抱えて、裏へと回ってきた。
「今度は何をお頼みになられたんです?瀬戸物ですか?」
「いえ、頼んだ覚えはちっとも」
不審に思いつつ箱を開いてみると、京人形の内裏雛が出て来た。
「まあ、可愛らしい」
おたつは喜びの声を上げた。
「季節外れだけどねえ」
と、琉璃は苦笑した。
「急度、本郷の御前様からですよ」
おたつはそう言ったが、桐箱に同封されていた封書の手蹟は定敬のものではなかった。
御流の麗々しい達筆は、静寛院宮のものである。
「此度はほんに有り難う。そなたにも御礼をと思うて、京雛を見立ててみました。来年の御節句にはそのお内裏さんを飾ったところを見せて下さいね」
と、書かれてあった。
琉璃は暫し、その女雛に見入っていた。何処と無く宮に似ている。いや、京雛そのものがやはり生粋の京女である静寛院宮に似ているのだろう。
ぼんやりと手紙を開いたまま、琉璃はふと大坂城での家茂との一夜のことを思い出した。
「あの時、昭徳院様はただ御自分のお話を深夜遅くまでなされただけだった」
その為にだけ、琉璃を呼んだとしか思えなかった。
てっきり夜伽をするものだと思い、素顔でいつもの髪のままの白装束でちんと座っていたのだが。
琉璃のその姿を見て、家茂は「あ」と小さく叫んで、にっこり笑ったのを覚えている。
何故に家茂は琉璃を寝所に呼んだのか。そうしてただ添い寝するだけだったのだが、そういえば今だによく判らない。
「もしかして、私をお試しになられたのだろうか」
大奥の他のお女中ならば、お声が掛かるなど滅多と無いことである。それを利用しない手はない。
ああは言われても、櫛を外してこってり化粧をし、いきおい寝所に臨むだろう。
だが、琉璃は家茂の言うままに化粧もせず、普段の寝間着のままでやって来た。やる気がないとしか言いようが無い。それを見て、この女には閨閥の野心などまるでないと思ったか、或いは気分が萎えたか。
「いえ、本当の私は父上や母上の為に野心満々だった。でも、それは男形として、別所伊織佑豪としてであって、別所琉璃としてではなかった」
家茂は、其処を見て取ったのかもしれなかった。
いま一つの理由としては、暗殺の危惧を感じたとも考えられた。家茂は、琉璃が富田流小太刀の免許皆伝であることを知っていた。刺客避けとして、側女に手錬をおく必要があったという理由もなくはない。
「まさか、大坂城に釣天井が仕掛けられることもあるまいが」
と、途方も無いことを思い付いて、琉璃ははっとなった。
「……いえ。実は昭徳院様に守られたのは私の方だったのかもしれない」
膳所城での企てが未遂に終わり、すると守護職に密告した琉璃が逆に命を狙われてもおかしくはない。
狙う者が長州側かそれとも幕府側に潜む内通者なのかは知らねど、有り得ることである。
「その事をお気付きになられ、私を大坂に呼び寄せられたのだろうか」
それも今となっては、判らない。
再び文に目を落とすと、
「越中は軽薄だけど律儀な男なので、急度そなたを大事にしてくれる思います。それに憎まれっ子何とやらで、長生きしそうです。仲良うおきばり」
という括りの文章に思わず噴出しそうになった。
「何が可笑しいんです、お嬢様」
不審顔のおたつに、琉璃はいいえ、と笑いを噛み殺しながら首を振った。
和宮親子こと静寛院宮は、外出の輿にも馬車にも必ず徳川葵の家紋と菊の御紋の両方を用いていた。徳川の女となった誇りを胸に抱いて生き続けたのである。
その静寛院宮が薨去したのは、明治十年九月二日。三十二歳という若さだった。
たっての願いで、夫・昭徳院と同じ増上寺の墓所に並んで葬られた。後年、発掘調査の為に棺が開かれた時、宮の亡骸は一葉の写真を胸の上に抱いていた。
若く凛々しい武者姿の男性が写っていた。それこそ徳川家茂であろう。残念極まることに、その写真は百年余ののちの陽光を浴びて、たった一日で白紙となってしまったという。
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