(一) 

 元治元年(1864)三月のことである。
 桜見物で賑わう天満筋から船に乗って、伏見まで上ろうとしていた男がいた。新選組副長助勤の斎藤一である。日は暮れつつあり、けぶるような小糠雨が降っては止む。
 遠近の山肌が薄桃色に霞み、川岸の柳は青々と目を喜ばせるが、夜が近付くにつれて外を見ていた客も苫屋根の下に集まって来た。三十石舟とはいえ誰もが道中枕で寝そべるわけにはいかない。斎藤は江戸住まいの頃から心得ていた。あらかじめ天満八軒屋の常宿京屋忠兵衛に手筈を整えて貰い、中の間を半分借り切っていた。もともと船は得手ではない。いつぞや、小野川部屋の力士等と斬り合いに及んだ時も、斎藤は体調悪しく船酔いを起こしてしまった。我慢していたが快復の兆しが無く、鍋島河岸に下船せざるを得なくなった。結果的には、それが切っ掛けでのちの乱闘に繋がったのだったが。兎角、船旅にあまりいい思い出はない。
 寝ているうちに着いてくれればいいと思う。船はゆっくりと淀川を遡上して明け方頃に伏見へ着く。
 酒も飲まずに手枕で寝ていると、船客達の囁きが聞こえてきた。
「けったいな格好のお侍はんやな」
 その声の直後、船が大きく揺れた。枚方で一旦船頭が休憩するのだが、その間に途中乗船する客が上がってきた。
 斎藤は、薄目を開けて見た。
 浪人らしい男が船上をのし歩いてきた。総髪を大たぶさに結った姿で、長い大刀を屈めば落ちんばかりに差していた。身の丈は中背だが、それだけにおよそ二尺七寸余りあろうという落とし差しは異様であった。まず、幕臣ではない。顔色は青白く、一見才子風である。何処かの私塾で兵学でも教授しているといったら、そう思える風貌であった。
 折からの春雨で泥に塗れた草鞋の土をそこらに撒き散らし、辺りを見回すと、斎藤の横になっている中の間へ近付いてきた。草鞋のまま踏み込もうとして、船頭が男を制止した。
「其処はもういっぱい借り切りですわいな。堪忍しとくんなはれ。あっちの乗り合い行っとくれやす」
 すると男は細い目を急に剥いて、船頭を睨んだ。
「何言うちょる。もともと乗り合いの船に借り切りもあるか。こんだけ大勢おって、一人や二人で中の間借り切っとるのがおかしいき」
 土佐訛だな、と斎藤は目を閉じたまま聞いていた。しかしこの様子だと、こうやって寝ているわけにも行かない雲行きになってきた。隣半分を借り切っている男のところへ行くか、此方に来るか。斎藤は心の中で賭けてみる。
 船頭は弱った顔で言った。
「わてはそこの御両人さんから船賃を頂戴してお貸ししたさけ、伏見まではわてのもんやのうて御両人のもんや。そないに中の間にお座りになりたいんやったら、どちらかの御方と掛け合うてつかあさい」
 男はふん、と頷くと、
「其処な御仁のいずれかわしに席をお譲りくださらんかのう」
 斎藤は寝込んだ振りをしていた。面倒なことにかかわりたくない。しかし、薄目で隣の男を窺ったが立膝のままいっかな動こうとしていない。斎藤より年嵩のようだが、何処かの藩の下士あたりのような風情であり、もの静かである。
「おんしらつんぼか」
 その言葉に斎藤は些か中っ腹になった。仕方なく立ち上がる。男はむっとして言った。
「聞こえるんなら、端から返事くらいしたらどうじゃ」
 斎藤は、耳の穴をほじくりながら首を傾げた。
「おれは関東の田舎者でしてな。京より西や南の言葉はようわからんのです」
 すると、男は「それは西国を馬鹿にしちゅうがかや?」
「滅相も無い」
 斎藤は胡坐を掻いた。だが、男が矢庭に斎藤の胸倉に掴み掛かったので、腰が浮いてしまう。斎藤は内心腹が立ったものの、押し殺した声で応じた。
「船の上で切った張ったは宜しからず。船霊(ふなだま)様に穢れを見せる事は罷りなりませんよ」
「ほな中の間をどけ。血ィ見たなかったらのう」
 男はそう言って手を離した。斎藤は黙って襟元を直し、乗り合いの方へ移った。男は中の間の代金も斎藤に払わずに、早速のうのうと足をくつろげた。
 斎藤は大小を抜いて抱え込むと、板間に座って目を閉じた。ひそひそ声がまた聞こえてくる。
「何やつまらんのう。あのお侍はんでかいなりして情けないやっちゃ」
「頼りないのは、色男なんとやらや」
 好き勝手な乗り合い客の品評を聞きながら、斎藤は目を瞑ってぼんやりとしていた。
 やがて中の間の男二人は意気を通じたようである。いつしかお互いに酒を酌み交わしている。後から踏み込んだ男は千屋(ちや)菊次郎と名乗り、斎藤の隣に座っていた男は山中嘉太郎と言った。
 土佐の人間の京への遊学は先年三月から、前藩主・山内容堂によって禁じられている。しかし実情では勝手にこうして上洛しようとする者は後を断たない。実際、その場で斬り棄てても御公儀勤めの斎藤には何のお咎めもない。
 土佐藩は勤皇思想であるが佐幕を方針としている。過激に走った勤皇志士らが狼藉に及び、これを斬殺しても藩は知らぬ存ぜぬという。上部の人間と彼等志士を生んだ郷士らは戦国末期以来、異質の存在として反目し合っているからであった。
「それにしても、あの男の酒の飲み方はいただけない」
 斎藤は知らず、眉間に皺を寄せていた。千屋の飲み方は顔付きに似ず、歯の隙間からじゅぶじゅぶと音を立てる。あたりめのような肴を咀嚼する音も、斎藤の癇に障った。武士とは、物を食う時に無闇に音を立てるものではない、と厳しく躾されてきた斎藤にとっては許されざる下品な行為に思えた。
 寝ようにも、あの音が気に障って眠れない。
「斬るか斬らぬか」
 知らぬとはいえ、会津様御預新選組の組頭を虚仮にした事もそうだが、それ以上にあの音が胸糞悪い。考えれば考えるほど、自分が乗り合いにいることも合点がいかない。
 しかし、うつらうつらしているうちに夜明けて伏見の船着場へ着いた。
 斎藤は真っ先に飛び降り、船宿が並ぶ軒先で千屋と山中が降りてくるのを待った。
 だが、最後の客が通り過ぎてもいっこうに二人が現れる気配がなかった。引き返して船頭に尋ねてみた。
「ああ。あん御両人やったら寺田屋に入っていっきょりましたがな」
 斎藤は、しまったと思った。寺田屋に逃げ込まれたら、誘き出すのは面倒だ。宿の女将はもっぱら勤皇びいきだという。斎藤は諦めて屯所に戻ることにした。せめて船賃ぐらいは取り戻そうと思っていたのだが。

 七月十八日、御所で戦が勃発し、その敗走する賊軍を追って斎藤ら新選組の精鋭は天王山へ向かった。山上を駆け上がるまでに、幾たび刃を交え、暑さと激戦で滴る汗を拭いつつ、山道を急ぐ。
 斎藤が山頂に到着した時は既に首領・真木和泉らをはじめ十七名が自刃し果てていた。
 転がる屍の中に見た顔がある、と斎藤は足を止めた。
 三月、淀川を遡上する三十石船の中にいた土佐訛の男である。千屋菊次郎と言った筈だ。
 斎藤は、千屋の死骸を見下ろしつつ、
「船賃を返さねえでおっ死んだとは、ふとい野郎だ。あの世へ行ったらせいぜい取り立てに追い回してやるからな」
 船の中で聞いた千屋が酒を飲む音を思い出し、再び嫌な気分になった。
 実は、この千屋菊次郎には弟がいた。伏見へ向かう前大坂に居て、弟の金策が病に臥してしまい、ともに上京出来ずこのような事に至った。菊次郎は遺書をしたため、金策に再興を図るべく望みを託した。
 金策らはやがて大坂から遊説、義挙の為に山陰へと赴く。この時同時に大坂に逗留していたのが、田中顕助『花屋町騒擾』参照)であった。
 金策は同藩の井原応輔、島浪間(なみま)と巡歴し、作州に入った。久米郡吉岡の慈教院という勤皇僧のいる寺に暫く留まっていたが、いよいよ活動資金に困窮し、池上という造り酒屋に借金を願出ることにした。
 ところが。金を借り出せるどころか、強盗の侮辱を受け、追われる事となった。
 この時、山中嘉太郎も合流していた。山中はもと岡元太郎といい、備前の出身であり、菊次郎と船中で知り合った縁から金策に加勢していたのである。
 四人は勤皇庄屋の安東某に頼っていこうとしたが、途中、門尻という処で村人に包囲された。進退に行き詰った上、已む無く自害するに至った。山中嘉太郎が金策に介錯を頼み、井原、島が刺し違える。金策は一人自分達の汚名を晴らそうと土居村の町方に掛け合おうとした。だが、体よく旅籠に監禁され、弁明の余地無く切腹の道を選択した。
 金策の残した遺書によって、真相は程無く判明したが、既に時は遅し。四人の墓は「四ツ塚様」と呼ばれ、一時期信仰の対象になったという。
 船賃を払わなかった兄が志半ばで死に、資金繰りを甘く見ていた弟がその為に汚名を着て死ぬ。
 これが、たかが数十文の船賃にまつわる話である。

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