(一)
俗に「火事に喧嘩は江戸の華 伊勢屋稲荷に犬の糞」というのが江戸の町に多いもの。
東京になっても変わらない。
とりわけ、本所深川には一地面に必ず一つの稲荷があったほどだ。そのうえ大名、旗本屋敷、大店の庭には必ず稲荷の小祠があったものだから、江戸じゅうの稲荷社を数えるといったい幾つあったか。
しかし、誰も数えていなかったとみえる。
御多分に洩れず、麻布竜土町のこの界隈にも稲荷は少なからずあった。その殆どが我楽多稲荷なのだが。
琉璃の屋敷の南の板塀を沿って歩くと、其処にも小祠がある。
此処はひと昔以上前は、長州毛利中屋敷だった。ゆえに、もと中屋敷にあった稲荷神が広大な屋敷の取壊し後も残されているのだろう。
毎年、初午、二の午には稲荷万年講といって、初穂を上げ、絵行灯や絵馬を掲げ、幟など立ててお祀りしているが、その時くらいしか近所の子供らが祠の前に蟠っているのを見た事がない、と琉璃は思う。
番町屋敷に住んでいた時分も、屋敷の内に稲荷社はあった。
家屋自体は、御役目昇進によって長屋からお邸持ちとなった琉璃の祖父が新たに普請したものだったが、恐らく稲荷社はもっと以前からのものだっただろう。
子供心にも、何やらその古めかしさが神秘めいて見えた。
その頃から何となく稲荷社をおろそかには出来ず、気付くと竜土町の稲荷も暇を見ては供物を置いたり榊をかえたりしていた。
「よッ、お師匠(っしょ)さん。麻布の天女様がお見えだ」
豆腐屋に入ると、主の作造が琉璃を見て威勢のいい声を上げた。
魚屋でもあるまいに、ばかに声がでかいのが作造のおかしなところである。
「天女様はよして下さいよ、作造さん。今日はお客さんが多いのねえ」
近所の女房連中が店先で幾人か犇いているのを振り返って、琉璃は笑った。
丁稚の忠助が、作造を見て目をぱちくりさせる。
「おう、忠公。おめえはお師匠さんとは初めてお会いかえ。いつもは、お女中のおたつさんがお使いに来なさるからな。いいかい、お師匠さんは御一新前は番町のえれえお旗本のお嬢様だったんでえ。もうその頃から番町小町と噂される程の別嬪で」
と、作造は番町に住んだこともないのに、適当なことを言う。
「でな、こっちはお移りなさった時、ほら角のあの物識りの御隠居がお師匠さんを一目見るなり、"吉祥天様"だと叫んだ。そっから此処らじゃあ、お師匠さんを"麻布の天女様""麻布吉祥天"と呼んでるってわけよ。どうでえ、神々しいじゃあねえか」
放っておくと、作造の講釈は長引くばかりだ。聞いている琉璃当人がこっ恥ずかしい。
どうにかやめて欲しい、と思いあぐねているところに、忠助が「あッ」と大声を上げた。
「そろそろですよ、旦那。あの御方がお見えです」
言うが早いかで、作造はおう、と鉢巻を外し、奥へいそいそと入って行った。
「何なの?忠助さん」
琉璃が問い掛けると、天女様に顔を寄せられ、忠助は俄かにどぎまぎしながら、
「あ、はい。近頃毎四時頃になると、大事なお客さんがお見えで」
麻布のような一寸辺鄙な処へ、どういうお大尽がわざわざそれも豆腐屋へ買物に来るのかは知らないが。
琉璃が首を傾げていると、いつしかすっと薄日が翳って、店に白衣(びゃくえ)の男が入って来た。
「揚げをくれ」
すらりと背の高い、六尺はありそうな若い男が、やにわに言った。
忠助は、飛び上がらんばかりに奥へ走っていった。作造が途端に入れ替わりに出て来た。
女房連中も、買物を終えたのにまだ突っ立っている。
作造は、三宝を掲げていた。三宝の上には赤絵の皿、熊笹、そしてさらにその上には油揚げが堆く盛り上げられている。
「ささ、お待たせいたしました三位様」
若い男はうむ、と頷いて三宝に一礼し、なんと手掴みで油揚げを食べ始めたのである。
それが実に器用で巧妙なこと。人差し指と親指で摘み上げ、汁も滴らんばかりの油揚げを掲げる。下顎を少し突き出してあんぐり開いた口の中へ、それがぺろりぺろりと収まっていく。
数え上げて、以上二十枚。
「毎度お美事のお作法にて」
作造がお上手を言ったが、男は涼しい顔でにこりともせず、「今日のは些か油の切れがようないが」と評した。作造は、どきりと目を瞠った。
「しかし、美味なるぞ。一層精進せい」
懐紙さえ使わず、てらてらと光る手指もそのままに、男は目も眩むような白い羽織と単の裾をひらめかせ、出て行ったのだった。女房どもの黄色い溜息が、ほわあとその後を追うように舞った。
ほう、と安堵の息を漏らした作造に、琉璃は駆け寄った。
「どういう素性の御方?三位様って」
我に返った作造は、三宝を後ろ手に忠助に渡しつつ、
「まさしく三位の御方。備中高松の最上(さいじょう)稲荷様ですよ」
「は?お稲荷様」
琉璃が豆腐屋の外を再び見遣った時には、既に男の姿は角を曲がったようで、何処にも見えなかった。西日が傾くばかりだった。
「豆腐屋に居合わせたのが吉祥天女と稲荷神とは、そいつは可笑しい」
松平定敬は笑った。
彼の前には、土鍋が据えられていた。蓋の隙間から、白い湯気が出始めている。
「私は関係ありませんよ」
琉璃は鍋の蓋をゆっくりと開けた。
搗き立ての餅のような豆腐の白い身が、底に踊っていた。一寸四方に切った豆腐の間には、薄切りの松茸を挟んであり、茸の香ばしい香が立ち昇る。松茸湯豆腐と洒落こんだものだ。
「ははは。しっかしその男、いやお稲荷さん。油揚げ二十枚もぺろりとたいらげるとは、大した奴ですねえ」
藤田五郎が、待ちかねたように既に猪口から燗酒を飲んでいる。
「お狐様の化身なら、二十枚くらいどうもなかろう。人間だとすると、大した奴だぜ確かに。考えただけで胸焼けがする」
と、定敬は己の胸元を擦った。
「人間だって言うのなら、しけた詐欺師ですよ。毎日油揚げ二十枚をただ食いする為に、麻布まで通ってくるというのは、酔狂としか思えませんな」
藤田は身体を揺すって、笑声を立てた。琉璃は、鍋の底を菜箸で突付いた。
「あら。でも作造さんにしてみれば、大きな出費ですよ。いえ、投資というべきかしら」
「油揚げ二十枚ともなると、豆腐を都合四丁ほどは使うからな。勿体無いといえば、勿体無い」
と、定敬。
「投資というのは?」
藤田が訊き返した。
「何でも、三位様がお見えになるようになってから、豆腐が馬鹿売れしているのですって。備中高松の最上稲荷の御身代というと、従三位の御使い。つまり昔でいう城代家老のようなものねえ」
「へえ」
「しかも、鼻筋通った色白の役者のようないい男。長屋のおかみさん達は、そりゃあもう三位様の一挙手一投足を舐めるように見ていますし。何処となく眦の切れ上がった感じといい、白狐の化身らしいのだけど」
「御前様より男前ですか?」
定敬を目の前にして、藤田は意地悪く訊いた。
「それは何とも言えませんけど」
と、琉璃は笑うしかなかった。藤田の酒は水で三杯薄にしてやろうか、と思った。
作造の言うには、そんな霊験あらたかで神々しく美しい三位様が来店するので、商売繁盛。実に寝る間も惜しんでせっせと豆腐に油揚げ、がんもどきなどを作っているのだった。
成る程、三位様見たさに豆腐屋へ来て手ぶらで帰るというのも気が引けるというのだろう。
「そのうち、三位様のお墨付きというので、広目屋に頼んで広告を打ち出そうかとも言っているんですよ。作造さんときたら」
広目屋とは、新手の商売で、商品を宣伝したり催物を考える人間のことだ。新聞広告なども手掛けるというので、作造は非常に乗り気のようである。
「豆腐屋も商売っ気たっぷりだなァ」
と、定敬はそろそろ煮えてきた松茸豆腐の香を嗅いだ。
「近頃は牛鍋屋や洋食が流行りだして、豆腐屋も宣伝しないと需要が減っているのではないでしょうか」
琉璃は、もみじおろしを作りながら答えた。
「それこそ、三位様っていうのは広目屋の扮装じゃあないですかね。だとしたら、怪しからん話で」
藤田は警視庁一等巡査だけに、風紀に敏感である。
「油揚げごときの報酬では、広目屋の値打ちはなかろう」
定敬は、漸く取り分けられた小鉢を受け取って言った。
「あ、それもそうですな」
「それが……」
琉璃は「私もお相伴してよろしいですか」と、断りつつ、定敬と藤田の間に膝を折った。松茸を持参したのは、定敬だった。
「お話の続きですけど、三位様が作造さんのお店に来られるようになった訳というのを、忠助さんから聞いたんです」
琉璃は藤田に酒を勧められて、話しはじめた。
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