(二)
霞町は竜土町の隣町になる。
その町内に大橋淳庵という漢方医があった。
昔はそれなりに流行っていたが、幕府も末になるにつれ蘭方医に圧されて然程盛行でもなく、細々と開業している町医者だった。
淳庵の悩みの種は、跡取りであった。
娘が一人いて、これが十八になる。なかなかお侠で見目もよいので、近くの陸軍歩兵第三連隊の兵士らがちょっかいを出そうと、仮病を使って淳庵宅を訪れることもあった。
さりとて、麻布という郊外に住んでいるくせに江戸っ娘を気取るおよしという娘が、薩州出の田舎兵士に振り向く筈もない。およしには男っ気の噂も殆どなく、しかも淳庵自身はなかなか養子の口も探しあぐねていた。
そんな或る日。
その日は出先で接待に遭って、ほろ酔い加減で帰宅した淳庵。
床に就いたが、ちと飲み過ぎた所為かやたらに喉が渇く。いつも枕元に置く水差しの一杯では足りない。妻を起こすのも面倒なので、自ら厨へ水を飲みに行った。
さて、廊下を渡ってゆこうとすると、何やら障子の向こうでひそひそ声が聞こえてくる。
夫婦の寝所を出て二つ目の部屋が、娘の寝間である。話し声はそこから聞こえた。
声はおよしのものともう一つ。若い男のようだった。
淳庵の足は凍り付いた。
「なに。まさか淳行ではあるまいな」
弟子が一人住み込んでいる。淳行と名付けてやって、今年十六。
まだあどけなさの残る少年で、さらには淳行は知人の預かり人であった。ゆえに修業はさせても、婿に取ろうとは考えてなかった。
だが、耳を澄ませば聞こえてくるのは、およしの鈴を転ばすような笑い声と、若い男の相槌のような喋々喃々である。淳庵はかっと頭に血が上った。
「怪しからん。飼い犬に手を噛まれるとは、この事か」
さっと障子を押し開くや、其処に座すはおよしと色男の寝乱姿。
番茶も出花は十八の娘の内腿さらけ出し、たわわな胸乳もしどけなき様相に、淳庵は我が娘でありながら目を剥いた。
「やっ、貴様。およしに手を出すとは」
と、男の胸倉掴み上げてみれば、弟子の淳行に非ず。役者のような白面の美男子。
言っちゃ悪いが淳行は常陸土浦のこんにゃくいもみたいな半痘痕面。とてもおよしに釣り合いはとれないのが、何でこのような目の覚める如くの色男に。
すると、男は白衣の胸元をすっかり肌蹴たまま、すっくと立ち上がって淳庵の手を振り解き、
「ぬしゃ此処の主かえ?」
逆にその堂々たる物言いに、淳庵の方が吃驚した。「如何にも」と、淳庵が主の威厳を取り戻して言うや、
「頭が高い」
男は玲瓏とした声で、言い放った。
「この三位の胸倉を、町医者風情の手で触れるとは、怪しからん」
淳庵はぽかんとなった。
「我は備中高松は最上稲荷の名代なるぞ」
「はっ。最上稲荷様と申しますれば、彼の伏見様、豊川様と並び称される……」
「さてもさても。承知ならば、何と心得る淳庵とやら」
三位様は淳庵の名を知っていた。
実はこの淳庵は、深川なる我楽多稲荷、高尾稲荷末社のこれまた末子で、跡目を継ぐのもままならないので町医者大橋家の養子に入った。というのも実家と此処の祭神が同じという縁だったからである。
従って、淳庵は稲荷に対してまた格別の畏敬の念を持っていた。有識者とて、そういう時代である。
「はは。畏れ多くも最上の三位様。貴方様は何ゆえ、麻布のこれまた田舎臭い町医者の宅までお出でになられたのかと」
三位は、ふと顎に手を当てた。
「ちと訊ね人をじゃ。下々の者には明かせはせぬが、どうしても岡山から参らねばならんでのう。単身こうして来たはよいが、土地に不案内でのう。此処らを彷徨うておった。すると、稲荷の社がある。成る程、東京というところは感心じゃ。町の遠近(おちこち)に祠がある。急度、土地の者に訊けばわかろう、とな」
「それで拙宅にお入りに」
淳庵は、廊下の向こうにある裏庭を見遣った。確かに、いつからかわからないが古い稲荷社があって、祭祀は欠かさない。
こういう時、稲荷社の息子でよかった、と淳庵は内心胸を撫で下ろした。
「しかし、夜さり訪ね申したのでのう。この娘御に出くわし、濃やかな歓待を尽くして貰うておったところだったのじゃ」
「それはそれは」
三位の弁舌が余りにも爽やかで、気品に溢れていたので、淳庵も妙に納得した。
酒が残っていた所為も手伝って、その晩はおよしを咎めもせず、そのまま自分の寝所へと引っ込んだのだった。
翌朝、妻に昨晩の出来事を話してみた。そうすると、妻は些か胡乱な目付きになって、
「お前さま、その三位様とやらは本当にお狐様の化身でしょうか?およしに袖にされた陸軍の連中の内の誰かじゃないでしょうねえ。恨みに思って、夜這ってきたのやもしれませんよ」
女の方が冷静なものである。養子の淳庵は、この妻に滅法頭が上がらないので、そう言われると、段々昨夜の出来事が胡散臭く思えてきた。
念の為に、と自ら陸軍駐屯地まで赴いて、三位らしき男を捜したが、どうもそれらしい風貌には行き当たらない。夜中に見たので、昼間の制服姿とは大分様相が違うのではないかとも考えたが、しっくり来ない。
「それではお前さま、今宵も三位様がお出でになられるのを待ち受けて、確かめればよいのです」
妻はなかなかの知恵者で、
「お狐様なら、油揚げが大好物。たーんとお上がりになって頂くと、よいのです」
と、作造の豆腐屋へ油揚げを買いに、下女を遣った。
油揚げ二十枚。幾らなんでも、関取でも、嫌と言うに違いない。甘辛く煮た油揚げをぺろりと二十枚もたいらげたら、三位は紛うことなく稲荷の化身、というわけだ。
早速、その晩実行された。
恭しく九谷焼の角皿に盛り上げられた揚げを見て、三位はごくりと喉を鳴らした。
「どうぞ、ご賞味下さいませ」
淳庵が言い終わるか終わらないかで、三位の指先は、はや十枚目の油揚げをつまみ上げていた。
あっという間に食いも食ったり、二十枚。
「これは、間違いない」
淳庵も魂消た。
しかも、およしの寝床にはいつも白い和毛(にこげ)が点々と散らばっていた。
とはいえ、娘が白狐の化身の寵愛を受けるのはともかくも、毎晩油揚げ二十枚を三位に献上するのは些か勿体無い、と淳庵の妻は考えたようだ。
「いっそ、作造のところへ行ってご賞味頂いたほうがよろしいのじゃあないですかねえ。最上稲荷様の名代様がお店へ来られる、と評判になれば作造も願ったり叶ったりでしょうよ」
理屈も言いようだ。
淳庵としては、たかだか油揚げくらい、と言いたいのだが、やはり頭が上がらないので仕方なく、作造に根回しをして三位にその事を告げた。
「成る程、角の豆腐屋へ直接のう」
「作造と申します主人も、是非にと申しております」
而して、三位は作造の豆腐屋へ通うこととなったのである。
依然として、夜はおよしの元へやって来る。そんなこんなで、ひと月程その調子なのだと、丁稚の忠助は琉璃に語ったのである。
「――成る程、怪体な話だ」
定敬は松茸豆腐をふうふう吹きながら、丁寧に口に運んだ。
「まさか、作造と三位様がぐる、ってことはないでしょうな」
藤田は疑っているらしい。
「作造さんは、そういう小芝居の出来るような人じゃありませんよ。いい意味でね。確かに豆腐屋は繁盛で、三位様もその上前を頂戴したうえに、若い娘としっぽり出来れば、両得でしょうけど」
琉璃は悄然として、言った。
「いっちょう、作造を締め上げてみるか」
「それは」と、言い掛けた琉璃の言葉尻を定敬が掬う。
「勇み足はよくない。まァ、いずれそのうち三位様も尻尾を出すさ。出さなくとも音を上げる。今のところ、誰が辛い目に遭ってるでもなし、暫く様子を見ておけばいいだろう」
「事件になってからでは、遅きに失すると申しますが。盗人を見て縄を綯う」
「下司と警察の知恵は後から出る、とも言うが」
「それは酷いですよ」
定敬と藤田の遣り取りを聞きながら、琉璃は再び台所へ向かった。豆腐が足りなくなってきた。
そういえば、裏の稲荷社にも御神酒を上げねばならない、とふと思い出したのだった。
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