(三) 
 

 三位様の霊験あらたか、作造の豆腐屋は繁盛を極めていた。
 油揚げは「最上三位揚」と銘打って、ほぼ半時間ごとにからっと揚げたてが店先に並ぶ。
 その香ばしい匂いが、数町先にも漂うほどだ。近隣の長屋の女房連中にとっては珍しくもないが、噂を聞きつけた人々が、開店と同時に押し寄せるのである。
「たかだか豆腐や油揚げに大の大人が」
 と侮ってはならない。広目屋が打ち出した広告が、『東京日日新聞』などにも取り上げられて、色刷豪華の錦絵となるや、それが東京のみならず近郊都市にも流れた。
「昔、本所や麻布は狐狸跳梁の片田舎なれど、今薄雲のかすみに棚引く霞町の御神狐といえば、名高き備中高松は最上正一位稲荷大明神の名代にして三位様と云う。御神狐の日毎通うは、豆腐屋作造の……」
 と、宣伝文句が書かれ、一寫ヨ芳幾描くところの作造が色男の三位様に油揚げを捧げる場面が堂々と刷られているのである。三位様の背後には、それらしく白狐が描かれていた。
「こうなると、作造も一寸した有名人だな」
 定敬は、錦絵を眺めて言った
「遠くから求めに来る人が増えて、却って近所の私達が行きづらくて」
 と、琉璃は金魚鉢に餌を入れながら答えた。
 ちょうど定敬が来訪したのと入れ替わりに、女中のおたつが買物に出て行った。
 昼稽古が終わって、ひと息吐いた頃を見はからい、この本郷の若隠居はやって来る。そうなると、今晩は泊まりになるので、おたつもそわそわする。
 四十女の大年増のおたつも、枯れ切ってはいないので、なるたけ女主人と通いの若隠居には遠慮がちになった。
 北千住に琉璃の母が居て、気を利かせて其処へ行くこともあったが、今日は用事が立て込んでいて、買物に出たのが遅かったのである。
 そのおたつは帰って来るなり、
「作造さんのところで、また例の三位様の噂を聞いたんですけどねえ」
 豆腐を桶に抱えたまま、何故か困り顔をして言った。
 「作造さん、お店はお忙しいことで」と、おたつがお愛想を言うと、「へえ」と大きな濁声が返ってきた。店には相変わらず長蛇の列で、忠助と作造の女房が客を捌いている。
「大橋先生のところも繁盛していると聞きましたけどねえ――あ、お医者様が繁盛、というのもおかしな言い方ですけど」
 おたつの言うよう、作造の豆腐屋のみならず、三位様の通うおよしの父・大橋淳庵の医院も俄かに流行りだした。そうして、診察にやって来た人は必ずといってよいほど、淳庵宅の庭内にある稲荷社を拝んで帰る。
「三位様がわざわざお越しになられた祠ゆえ」
 なのである。
 話が段々と大きくなっているようだ。
 更にその上、寵愛に与っているおよしのお零れを頂戴したいという娘もやって来たりして、およしは自分の肌襦袢を切って娘たちにあげたりしているようだ。こうなってくると、一種の信仰めいて莫迦げているともいえるが、庶民は何故か大真面目だから、取り付く島もない。
 だが、そのおよしに異変が起きた。
「近頃、三位様がお見えにならなくなった」
 と、嘆き出した。三位様は初め、夜毎におよしのもとへ通っていたのだが、ひと月を過ぎた頃から二日に一度、三日に一度となり、今ではぱったりお見えにならない。
 かといって、作造の豆腐屋へは毎日来るので備中高松に帰ったのではなかった。さりとて、女の方から物欲しげにするのもどうかと思い、およしは豆腐屋へも見に行かず、一人悶々と娘盛りの身体を火照らせていたのである。
 では、件の三位様はというと、別の通い女が出来たのだった。
 淳庵の斜向かいの坂を上がった畳屋に、である。其処に出戻り娘のおさいという、三十ばかりの女がいた。
 おさいは一寸垢抜けた派手目の顔立ちで、畳屋の娘にしては華やか。
 一度、京橋の青物屋に乞われて嫁いだが、亭主に死なれ、子供もなく、また大旦那の後妻という女がおさいと反りが悪く、石女
(うまずめ)に用はないとばかりに追い出した。自分は後釜に座って大旦那の子を産み、そっちを跡取りにするという算段で、いきおい邪魔にしたようである。
 そんなこんなで実家に戻って来た一寸不幸な翳りのあるおさいの元へ、三位は行き付ける。
 恥ずかしいこととて、おさい本人は黙っていたが、親爺が気付いたので噂が広まった。
「やっぱり、三位様は尻の青い小娘なんざより、酸いも甘いも噛み分けたうちの娘にお情けを、と思って下さったんでえ」
 などと言うものだから、およしもむかっ腹を立てた。それまでは、そこの坂上の畳屋を使っていたのが、二町も先の畳屋へ鞍替えして欲しいと淳庵に頼む。どちらの親も娘は可愛いもんだから、医者と畳屋の睨み合いという妙てけれんな図式になってきた。
「あ奴の所の畳の上に寝ている病人など診るわけにはいかん」
「てやんでえ。医者が恐くて畳針が刺せるかってんだ」
 という始末。
 それだけに留まらなかった。
 三位は別のところへも通いだしたのである。裏長屋に羅宇屋がいたが、そこの女房にも情けをお与えになったという。此方はおさいよりももっと年上で、しかし色っぽいじくじくしたような女だった。
 昼間は亭主の留守中に縫物をして内職に励んでいる。子守をしながらで、その昼間に三位は現顕なすったのだ。
 さすがに稲荷様といっても、他人の女房を寝取るなんて、と世間は驚きもすまじ。
 羅宇屋は「おれん所へも運が舞い込んできた。おお有り難や」と踊らんばかりになったという。
「呆れたお稲荷様ねえ」
 琉璃は、おたつの話を聞いて、そう思った。
「ほんに、若い娘から艶な女房まで」
 と、おたつは露骨に厭な顔。
「よくもそれだけ身体がもつものだな。やはり、油揚げというのは精がつくのかな」
 定敬は、おたつの淹れて来た茶を啜って言った。
「いやですよ、御前様。そうでなくとも作造さんから、また困り事を預かってきたのです」
 作造はどうも淳庵や畳屋から言い含められたらしい。
「いったい稲荷様の御利益であちこちの店が繁盛するのは有り難いことだが、娘らは手玉に取られた心地がして困っている。稲荷様に娶って貰うにしろ、一人にお決めになるか、側女を誰になさるか、ここらで決着をつけて頂きたい」
 と、父親らは言うのだが、肝心の三位にはなかなか会う事が出来ない。まさか、他所の家に踏み込んでうんうんすんすんやっているところに入って行くのも罰当たりな気がする。
 従って、作造に白羽の矢が立った。毎日油揚げを頂戴にやって来る豆腐屋が適任というのだ。
「……そんでねえ、おたつさん。他でもねえ町内のご贔屓の皆様の仰る事ですから、腹を括りやしたよ。畏れ多いが、三位様に申し上げたんですよ」
 作造は涙を絞るような声で、経緯を語った。
 すると、三位はいつものように油揚げ二十枚たいらげた後に、暫し考え込んだ。
「成る程、そなたらの申す事あいわかった」
「は。有難きしあわせ」
 作造は一層腰を低くして、三宝を下げた。
「暫し待て」
 と、三位は言い、遠くを見るような目付きになってから、よしと頷いた。
「ど、どちらの娘さんを」
 作造も気が気でない。
「うむ。十軒先の屋敷に女師匠が住んでおろう。いつも祠に御神酒や厚揚げを置いてくれる。あの美しい年増にいたす」
 およしかおさいか、はたまた羅宇屋の女房かと思っていた作造は、仰天した。
「お、お師匠さんですかい」
 訊き返そうとした時には、既に三位は店を去っていた。
「――という訳で、聞けば大変な事に。お嬢様」
 おたつは困り果てた顔付きで、琉璃に告げた。
「そんなお顔しなさんな、おたつ。成る程、三位様が私の所へねえ」
 ほほほ、と琉璃は笑った。
「作造さん達が、天女様天女様と言いふらすからです。そりゃあ、お嬢様のご器量は此処らでは掃溜めに鶴。月とすっぽん。府内でも群を抜くお美しさですけれども」
「言い過ぎよ、おたつ。確かに作造さんのお店で一度、三位様のお顔は拝見してますし、名指しを受けるのも悪い気はしないけど。一応これでも女ですもの」
 と、あっさりとしたものだ。
「いっそ教場も繁盛するかしらん」
「御前様、お嬢様はあんな事仰っておられますけど」
 おたつは定敬に縋った。
「お稲荷様が出向いてくれるというなら、これは好都合」
 定敬は腕組みをして、まんじりともせずに言った。
「こうなってくると、何やら怪しい臭いがしてきたな。日比谷稲荷なら油揚げでなく、鯖を奉納するが、三位様は蛤吸物(はまぐりずもの)もお好きと来た、というと些か我ながら下卑てはいるが」

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